ここ数週間、フィリピンに在住しているこの時を利用して、連合軍・日本軍合わせて35万人余、現地居住民を含めれば100万人を超える犠牲者を出した、太平洋戦争時の比国内激戦地を戦没者慰霊のため訪問しました。今回の記事は自ら撮影した写真を中心に、慰霊の記録としてご報告させていただきます。また、フィリピンと日本、連合国(米国)について簡単な考察を加えてみました。
※フィリピン戦線全般に関する一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「 フィリピンの戦い」)
■バターン・カパス=ルソン島「死の行進」
※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「バターン死の行進」)
写真1:カパスにある平和モニュメント
収容所のあるカパスまで、米軍、比軍の捕虜を歩かせる間に、不足する食料、炎天下における長距離の行進で、多くの捕虜が倒れたという。ただし、現地を知る私としては、ルソン島の夏の日差しはそこそこ強いが、日本のように多湿ではないため、仮に摂氏40度近くても日本のように汗が噴出し意識が朦朧とするようなことはない。しかも、現地の古老の話では昔のルソンは、今みたいに暑くなかったという。30度を超える日の方が珍しかったとも聞く。乾いた空気の下では摂氏30度も過ごしやすい気温となる。フィリピンでは米軍を解放軍と認識するプロパガンダが行き届いているため、この「死の行進」にもかなり誇張が含まれていると思われる。かといって傷病兵など犠牲者が全くなかった訳ではないだろう。戦争とは事後の戦史編纂まで含めてその一環なのであろうから。
写真2:旧マバラカット海軍航空隊基地付近から望むアラヤット山
マバラカット基地は、関行男大尉率いる太平洋戦争最初の神風特攻隊の出撃基地となった。平野部に忽然とそびえるアラヤット山は、基地に帰還する航空機の目印になったという。この美しく悠然とした山は、現地でも神の住まう山として崇敬されている。最初の神風特攻隊長となった関行男大尉の銅像もこの地に建造されていた。
■リモン峠=レイテ島「リモン峠の戦い」
※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「レイテ島の戦い」)
写真3:戦後、日本人により建立された慰霊碑。
リモン峠にはこのような慰霊碑が多く建てられ、ここで行われた激しい戦いと、残された遺族・関係者の悲痛な思いを偲ばせる。ちなみに、私(日月土)の祖父は徴兵されレイテ島で亡くなった。語学(英語・独語)が達者な人だったと聞かされているで、おそらくこの地に移動してきた通信隊に所属していたと想像される。全ての戦没者及び我が亡き祖父に合掌。
■タクロバン=レイテ島「アメリカ軍上陸」
※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「レイテ島の戦い」)
写真4:タクロバンにある日本人戦没者慰霊碑
現地でたまたまお世話になった方のお母様が、戦争中のことを覚えておられるので話を伺った。「日本の兵隊がいた頃はたいへんだった。日本兵にはひどい目にもあった。戦闘が始まるとみんな山の中に逃げた。戦闘中は米が作れないので、食べ物がなくて辛かった。」等々。思わずこちらが「日本人が皆さんを苦しめたのなら、謝ります。ごめんなさい。」と伝えたところ、彼女は「いいえ、あれは戦争だったのよ。」と笑って答えてくれた。まるで、慰霊に訪れた私が慰霊されたかのような、心安らぐ瞬間だったことは生涯記憶に留めたい。彼女の言葉を胸に、美しい湾岸沿いに建てられた慰霊碑を訪れ、平和を祈った。
写真5:マッカサーの再上陸モニュメント
タクロバンはアメリカ軍の上陸地点。"I Shall Return(私は必ず戻ってくる)"で有名なマッカーサーがかつての植民地に再上陸したのもこの地点だ。フィリピンでは、マッカーサー上陸の日(10月20日)を「解放の日」と呼んでいるが、それについて私はかなり異論がある。まず、マッカーサーの父(アーサー)がフィリピンで行った激しい植民地弾圧と、日本によるフィリピン独立運動の支援という歴史的事実が忘れられている。そして、日本の独立支援運動が突如中止にされたこと、マッカーサー父子が後に在日米国大使館付の武官に就任したこと。国際軍事評論家のB氏によると、なんと、マッカーサー(子、ダグラス)のは日露戦争の際に観戦武官として日本海軍の艦船に乗船していたという。マッカサーと日本の付き合いは、第2次大戦後が初めてではなく、それよりかなり前に深い所で始まっていたのである。ちなみに、マッカーサー家が英国貴族の血脈であり、家族内にロスチャイルド家との繋がりがあることには注意を喚起したい。また、本人がフリーメーソンの一員であることは陰謀論の世界ではもはや常識となっている。
■スリガオ海峡=レイテ島・ミンダナオ島「スリガオ海戦」
※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia 「レイテ沖海戦」)
写真6:スリガオ海峡
レイテ島南東部、アナハワンの海岸からスリガオ海峡を臨む。海峡の向こうに見えるのはミンダナオ島北部に連なるディグナット島。潮が速くこんな狭い所で艦隊同士が戦闘をしたというのがちょっと信じられなかった。国際軍事評論家B氏によると、この戦闘不向きの海峡を敢えて攻めることこそが、敵の裏を掻く日本海軍の作戦だったのだが、連合国軍は日本海軍の作戦を読みきっており、むしろ海峡の速い潮流と潮の高低差を上手く利用した魚雷艇攻撃により、日本軍を撃破したとのこと。この海戦で西村艦隊、志摩艦隊の若く優秀な海兵たちが数多く戦死し、日本海軍にとって大きな痛手となった。合掌。
■ダバオ=ミンダナオ島「フィリピン諸島戦、後期の戦闘」
※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「ミンダナオ島の戦い」)
写真7:ダバオ郊外ミンタルの墓地にて
フィリピン戦の後期には連合国軍がミンダナオ島に上陸開始、ここダバオでは日本軍が連合軍の攻撃を受け2ヶ月間防衛を続けたが、やがて後退へ。慰霊碑は、ダバオ郊外のミンタルにある現地の洋式墓地の中に幾つも建立されていた。赤道に程近い、南国の照り付ける強く明るい日差しが、かえって、ここで起きた戦闘の激しさとご遺族の深い悲しみを対比させる。
図1:今回の慰霊先の見取り図
■フィリピンの戦いと日本の黒い霧
B氏よると、フィリピン戦には軍事常識的に考えると不思議な点が幾つかあるといいます。まず、米国海軍はもとより陸軍参謀本部もフィリピンへの上陸ではなく、台湾に進攻し日本軍を叩き、フィリピン駐留軍を孤立させ日本本土を攻めるべきだと主張していたのに対し(その方が犠牲も消耗も少ない)、マッカーサーはフィリピン進攻に強くこだわったていたとのことです。海軍提督ミニッツとの個人的な確執や、「(かつて自分が在任していた)フィリピン国民との約束」という理由がまるで美談のように語られていますが、果たして軍の指揮官がそんな情緒的な理由で上層部の指示する作戦にそこまで抗う必要があったのでしょうか?
また、太平洋戦史でよく話題になる栗田艦隊「謎の反転」ですが、歴史に「もしも」は禁物とはいえ、もしも、栗田艦隊が反転せずレイテ島に向かっていれば、海上戦が不得手なマッカーサー率いる上陸艦隊は大打撃を受けていただろうし、マッカーサーの生死も危うかっただろうと言われています。太平洋戦史は栗田艦隊の判断一つで明らかに変わっていたはずなのです。世界の海戦史のほとんどを研究したというB氏も、「栗田艦隊の反転理由だけは未だに分からない」と言っています。これだけでも怪しい話ですが、敗戦後、どん底の経済状況の中、栗田艦隊関係者がどこからか資金援助を受け、現在の栗田工業を設立したのは有名な話です。このように考えると、1981年、栗田工業の社長子息がフランスで起こした猟奇事件も歴史の闇と何か関連があるように思えてなりません。ちなみに、その社長はこのブログで何度も取り上げている疑惑の企業「伊藤忠商事」からの出向社長です。(参考:パリ人肉事件)
翻って陸軍関係の話題ですが、フィリピン国内では、どこに行っても旧帝国陸軍の隠し財宝の話が話題になります。いわゆる山下財宝、M資金などの話の元になっている噂です。地元の人に聞く典型的な話は、「日本軍に借り出され、港から物資を輸送。山に穴を掘り、それを隠した後で殺され同じ場所に埋められた。その後、地元民を殺した一般兵士も上官に殺され、やはり同じ場所に埋められた。」というものです。何だか武田信玄の芸者舞台に似た話です。話を冷静に聞くと、少なくとも
・何かを運び込んで埋めていた。
・従軍労働後に殺された人(地元民・日本兵)がいる。
というのは事実のようです。私の居住する地域では、旧陸軍の敷設した立派な舗装道路が山岳部に残っているし、その近辺で実際に金塊を掘り当てた人物もいます。また、身内が日本兵に殺されたということで、今でも日本を憎んでいる一家があり、日本人の一人歩きを注意されることもあります。以上を総合して私が現地で受ける印象、それは「帝国陸軍は本当にここで戦争をしていたのだろうか?」というものです(*1)。同時に、マッカーサーがフィリピン占領に固執した事情と、フィリピン国内に帝国陸軍が隠した「何か」とは密接な関係があるのではないかという疑いが強まります。
さて、これまでに私が会った、ある歴史研究家の調査によると、戦前に存在した日比友好協会(これが正式名称かどうか自信がありません)の日本人会長は紀州徳川家直系の人物だったと言います。時系列的には、当時フィリピンの実質的支配者であったマッカーサー家と日本の徳川家がこの時点で極めて親密な関係であった可能性が伺えるのです。これを裏付けるように、敗戦後、日本に駐留したマッカーサーが採用した日本人秘書が、まさにこの徳川家の人物の子息(養子)であり、元陸軍情報部の仕官でもあった人物と聞いています。またその実の親は西部グループの生みの親で、政治家・実業家の堤康次郎であるとも聞き及んでいます。当然ながら堤義明氏や堤清二氏とも異母兄弟の関係ですが、康次郎には庶子が多くその多くが政財界に養子に出されているため、小泉純一郎、安部普三、麻生太郎、鳩山由紀夫など、近年の総理経験者、当然その親の代・祖父の代ともどこかで血が繋がっていると考えられています。裏が取れている情報ではないので断定はしませんが、現代史にご興味がある方はぜひ調べてみてください。もしも、こうした話が事実ならば、
ロスチャイルド家−マッカーサー家−徳川家−堤家→日本政財界
(フリーメーソン)
が一線で繋がることになり、太平洋戦争は特定の一族が定めた出来レースであった疑いが極めて強くなるばかりでなく、現在に至るまで日本の政財界(軍)がこれらの一族=旧華族ネットワークに支配されている構図が見えてきます。そして、その旧華族の長と呼ぶべき徳川家(主に尾張徳川)こそが、私が本ブログの日航機123便関連記事で「クロカモ」と呼ぶ、日本の闇組織の中核グループの一つであるだろうと、確信しているのです。徳川は死んでいない。というより、明治維新そのものが、初めから英米西欧諸国、薩長連合と結んだ壮大な茶番であった可能性すらあるのです。我々はそろそろ、作家司馬遼太郎氏が作り上げた虚構の現代史「司馬史観」から離れなければならないようです。
写真8:徳川の隠れ里、愛知県新城市
ここまで、フィリピンを巡る日本と米国の関係を中心に述べてきましたが、この国の政治に最大の影響力を持つ彼の国については敢えてまだ触れていません。フィリピンが最大の資金源であり、現アキノ政権を事実上の支配下に置く国家。その国家こそ、ここフィリピンにおいて日米の密約を取り持ち、日航機事件の最高機密をもコントロールする隠れた影響力を有する国家(または機関)であることが段々と分かってきました。この慰霊報告を書き上げたところで、そろそろその正体を明かす時がやってきたようです。
*1 戦争をしていたのか?:日本人帰還兵、小野田寛郎氏の話も謎が多い。現地フィリピンでは、農作物や家畜を盗み、村の婦女子を暴行する厄介者として長く迷惑がられていたと聞く。徹底抗戦を心に決め密林に篭り、日本人青年の説得に応じて姿を現したとする日本の報道とあまりに違う。日本では本人の決断で現地軍に投降したことになっているが、こちらではあまりの狼藉振りにフィリピン軍がとうとう身柄を拘束し、日本政府に引き取らせたという事になっている。どちらが真実なのか?本人は旧陸軍中野学校で訓練を受けた工作員。後のインタビューで、ラジオを自作し戦争が終わったことも、新幹線が開通したこともみんな知っていたという。事物を冷徹に判断すべき工作員が「母国は米国の傀儡だから帰りたくない、反撃を待つ」を理由に果たして現地に30年近くも留まるだろうか?日本帰還後、そんなに時間を置かず結婚相手を見つけ、半年後には兄弟のいるブラジルに移住したというのも、ちょっと考えると出来すぎた話だ。同じくグアム島からの帰還兵、横井庄一氏の場合も帰国後すぐに結婚相手を見つけている。まるで宛がわれたかのように。私は、小野田氏の場合は特に、戦後も現地で戦争とは直接関係のない何らかの特殊任務を継続していたのだろうと疑っている。
* * *
以上、慰霊のご報告と共に、フィリピン諸島における戦争で日本陸海軍・マッカーサー上陸軍が取った奇妙な行動とその関係性を推察してみました。私が強く思うのは、もしもそのような疑念が事実であったとしたら、あの戦争における英霊の皆様の死は何だったのか?私の祖父の死はいったい何だったのか?という、率直な疑問です。それだけでも祖霊に対する大きな裏切りなのですが、仮にそれを除いても、戦後の日本は、123便事件では罪無き民間人紛争犠牲者を事故死であると嘘で誤魔化し、今回の福島原発事件では、国土を著しく穢し、国民の健康や生命まで損なおうとしています。この慰霊旅行中、私は本当に英霊の皆様の子孫として恥ずかしかった。何でこんな国になってしまったのか。私は、墓標の前でお詫びの言葉を告げると共に、母国日本のために、たとえ微力であっても、自分のできることをやり遂げますと、神々そして英霊の皆様に誓ったのです。
奉歌
ひふみゆら、ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら。
かけまくも、かしこけれども、歌たてまつる。
御まへに、歌たてまつる。弥栄み歌を。
世を救ふ、大みゐわざぞ。みことかしこし。
まさに今、神のみことを、このみみに聞く。
三千世界、救ふみわざぞ。言ただし行かな。
大神の、しきます島の、八十島やさか。
天かけり、地かける神も、みひかりに伏す。
堪へに堪へし、三千年の、イワトひらけぬ。
したたみも、いはひもとほり、神に仕へむ。
大稜威、あぎとふ魚も、ひれ伏し集ふ。
かむながら、みことの朝を、みたみすこやかに。
神の子ぞ。みたみぞ今の、この幸になく。
国原は、大波うちて、みふみを拝す。
天もなく、地もなく今を、みことに生きん。
大みつげ、八百万神も、勇みたつべし。
天地の、光となりて、みふで湧き出づ。
一つ血の、みたみの血今、湧きて止まらず。
大みこと、身によみがえる、遠つ祖神の血。
すでに吾れ、あるなし神の、辺にこそ生きん。
高鳴るは、吾か祖の血か、みつげ尊し。
吾れあらじ、神々にして、祈らせ給ふ。
天地も、極まり泣かん、この時にして。
かつてなき、大みつげなり、たたで止むべき。
天地も、極まりここに、御代生れ来ん。
大き日の、陽にとけ呼ばん、くにひらく道。
みことのり、今ぞ輝き、イワトひらけん。
宮柱、太しき建てて、神のまにまに。
抱き参らせ、大御心に、今ぞこたへむ。
言いむけ、まつろはしめし、みことかしこし。
ただ涙、せきあへず吾は、御まへに伏す。
ささげたる、生命ぞ今を、神と生まれます。
大まへに、伏すもかしこし、祈る術なし。
今はただ、いのちの限り、太道伝へむを。
祈りつつ、限りつくさん、みたみなり吾れ。
いのち越え、大きいのちに、生きさせ給へ。
ひたすらに、みことかしこみ、今日に生き来し。
言霊の、言高らかに、太陽にとけな。
天に叫び、吾れにむちうち、今日に生き来し。
あらしとなり、あまかけりなば、この心癒えむか
走りつつ、今海出づる、大き月に呼ぶ。
みみかくし、生命と生れて、遠つ祖神さか。
神々の、智は弥栄え、此処に吾れたつ。
みたみ皆、死すてふことの、ありてあるべき。
あな爽け、みたみ栄あり、神ともに行く。
さあれ吾の、生命尊し、吾を拝みぬ。
みづくとも、苔むすとても、生きて仕へん。
いゆくべし、曲の曲こと、断たで止むべき。
かへりごと、高ら白さんと、今日も死を行く。
追ひ追ひて、山の尾ことに、まつろはさんぞ。
追ひはらひ、川の瀬ことに、曲なごめなん。
みことなれば、天の壁立つ、極み行かなん。
と心の、雄たけび天も、高く鳴るべし。
まさ言を、まさ言として、知らしめ給へ。
たな肱に、水泡かきたり、御稲そだてんを。
むか股に、ひぢかきよせて、たなつつくらむ。
狭田長田、ところせきまで、実のらせ給へ。
神々の、血潮とならん、ことに生き行く。
言さやぐ、民ことむけて、神にささげん。
にぎてかけ、共に歌はば、イワトひらけん。
大き日に、真向ひ呼ばん、神の御名を。
道端の、花の白きに、祈る人あり。
拍手の、ひびきて中今の、大きよろこび。
悔ゆるなく、御まへに伏し、祝詞申すも。
祝詞せば、誰か和し居り、波の寄す如。
のりと申す、わが魂に、呼ぶ何かあり。
御まへに、額づきあれば、波の音きこゆ。
悔ゆるなき、一日ありけり、夕月に歩す。
曇りなく、今を祝詞す、幸はへたまへ。
奉る、歌きこし召せ、幸はへ給へ。
ひふみよい、むなやここたり、ももちよろづう。
(日月神示 黄金の巻 第四十四帖より)
MEMORIA IUSTI CUM LAUDIBUS ET NOMEN IMPIORUM PUTRESCET
SAPIENS CORDE PRAECEPTA SUSCIPIET STULTUS CAEDITUR LABIIS
QUI AMBULAT SIMPLICITER AMBULAT CONFIDENTER QUI AUTEM DEPRAVAT VIAS SUAS MANIFESTUS ERIT
QUI ANNUIT OCULO DABIT DOLOREM STULTUS LABIIS VERBERABITUR
VENA VITAE OS IUSTI ET OS IMPIORUM OPERIET INIQUITATEM
ODIUM SUSCITAT RIXAS ET UNIVERSA DELICTA OPERIT CARITAS
神に従う人の名は祝福され 神に逆らう者の名は朽ちる。
知恵ある心は戒めを受け入れ 無知な唇は滅びに落とされる。
完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない。
嘲りのまなざしは人を苦しめる。無知な唇は滅びに落とされる。
神に従う人の口は命の源 神に逆らう者の口は不法を隠す。
憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。
(箴言 第10章7-12節)
南の島 フィリピンより
管理者 日月土
※フィリピン戦線全般に関する一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「 フィリピンの戦い」)
■バターン・カパス=ルソン島「死の行進」
※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「バターン死の行進」)
写真1:カパスにある平和モニュメント
収容所のあるカパスまで、米軍、比軍の捕虜を歩かせる間に、不足する食料、炎天下における長距離の行進で、多くの捕虜が倒れたという。ただし、現地を知る私としては、ルソン島の夏の日差しはそこそこ強いが、日本のように多湿ではないため、仮に摂氏40度近くても日本のように汗が噴出し意識が朦朧とするようなことはない。しかも、現地の古老の話では昔のルソンは、今みたいに暑くなかったという。30度を超える日の方が珍しかったとも聞く。乾いた空気の下では摂氏30度も過ごしやすい気温となる。フィリピンでは米軍を解放軍と認識するプロパガンダが行き届いているため、この「死の行進」にもかなり誇張が含まれていると思われる。かといって傷病兵など犠牲者が全くなかった訳ではないだろう。戦争とは事後の戦史編纂まで含めてその一環なのであろうから。
写真2:旧マバラカット海軍航空隊基地付近から望むアラヤット山
マバラカット基地は、関行男大尉率いる太平洋戦争最初の神風特攻隊の出撃基地となった。平野部に忽然とそびえるアラヤット山は、基地に帰還する航空機の目印になったという。この美しく悠然とした山は、現地でも神の住まう山として崇敬されている。最初の神風特攻隊長となった関行男大尉の銅像もこの地に建造されていた。
■リモン峠=レイテ島「リモン峠の戦い」
※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「レイテ島の戦い」)
写真3:戦後、日本人により建立された慰霊碑。
リモン峠にはこのような慰霊碑が多く建てられ、ここで行われた激しい戦いと、残された遺族・関係者の悲痛な思いを偲ばせる。ちなみに、私(日月土)の祖父は徴兵されレイテ島で亡くなった。語学(英語・独語)が達者な人だったと聞かされているで、おそらくこの地に移動してきた通信隊に所属していたと想像される。全ての戦没者及び我が亡き祖父に合掌。
■タクロバン=レイテ島「アメリカ軍上陸」
※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「レイテ島の戦い」)
写真4:タクロバンにある日本人戦没者慰霊碑
現地でたまたまお世話になった方のお母様が、戦争中のことを覚えておられるので話を伺った。「日本の兵隊がいた頃はたいへんだった。日本兵にはひどい目にもあった。戦闘が始まるとみんな山の中に逃げた。戦闘中は米が作れないので、食べ物がなくて辛かった。」等々。思わずこちらが「日本人が皆さんを苦しめたのなら、謝ります。ごめんなさい。」と伝えたところ、彼女は「いいえ、あれは戦争だったのよ。」と笑って答えてくれた。まるで、慰霊に訪れた私が慰霊されたかのような、心安らぐ瞬間だったことは生涯記憶に留めたい。彼女の言葉を胸に、美しい湾岸沿いに建てられた慰霊碑を訪れ、平和を祈った。
写真5:マッカサーの再上陸モニュメント
タクロバンはアメリカ軍の上陸地点。"I Shall Return(私は必ず戻ってくる)"で有名なマッカーサーがかつての植民地に再上陸したのもこの地点だ。フィリピンでは、マッカーサー上陸の日(10月20日)を「解放の日」と呼んでいるが、それについて私はかなり異論がある。まず、マッカーサーの父(アーサー)がフィリピンで行った激しい植民地弾圧と、日本によるフィリピン独立運動の支援という歴史的事実が忘れられている。そして、日本の独立支援運動が突如中止にされたこと、マッカーサー父子が後に在日米国大使館付の武官に就任したこと。国際軍事評論家のB氏によると、なんと、マッカーサー(子、ダグラス)のは日露戦争の際に観戦武官として日本海軍の艦船に乗船していたという。マッカサーと日本の付き合いは、第2次大戦後が初めてではなく、それよりかなり前に深い所で始まっていたのである。ちなみに、マッカーサー家が英国貴族の血脈であり、家族内にロスチャイルド家との繋がりがあることには注意を喚起したい。また、本人がフリーメーソンの一員であることは陰謀論の世界ではもはや常識となっている。
■スリガオ海峡=レイテ島・ミンダナオ島「スリガオ海戦」
※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia 「レイテ沖海戦」)
写真6:スリガオ海峡
レイテ島南東部、アナハワンの海岸からスリガオ海峡を臨む。海峡の向こうに見えるのはミンダナオ島北部に連なるディグナット島。潮が速くこんな狭い所で艦隊同士が戦闘をしたというのがちょっと信じられなかった。国際軍事評論家B氏によると、この戦闘不向きの海峡を敢えて攻めることこそが、敵の裏を掻く日本海軍の作戦だったのだが、連合国軍は日本海軍の作戦を読みきっており、むしろ海峡の速い潮流と潮の高低差を上手く利用した魚雷艇攻撃により、日本軍を撃破したとのこと。この海戦で西村艦隊、志摩艦隊の若く優秀な海兵たちが数多く戦死し、日本海軍にとって大きな痛手となった。合掌。
■ダバオ=ミンダナオ島「フィリピン諸島戦、後期の戦闘」
※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「ミンダナオ島の戦い」)
写真7:ダバオ郊外ミンタルの墓地にて
フィリピン戦の後期には連合国軍がミンダナオ島に上陸開始、ここダバオでは日本軍が連合軍の攻撃を受け2ヶ月間防衛を続けたが、やがて後退へ。慰霊碑は、ダバオ郊外のミンタルにある現地の洋式墓地の中に幾つも建立されていた。赤道に程近い、南国の照り付ける強く明るい日差しが、かえって、ここで起きた戦闘の激しさとご遺族の深い悲しみを対比させる。
図1:今回の慰霊先の見取り図
■フィリピンの戦いと日本の黒い霧
B氏よると、フィリピン戦には軍事常識的に考えると不思議な点が幾つかあるといいます。まず、米国海軍はもとより陸軍参謀本部もフィリピンへの上陸ではなく、台湾に進攻し日本軍を叩き、フィリピン駐留軍を孤立させ日本本土を攻めるべきだと主張していたのに対し(その方が犠牲も消耗も少ない)、マッカーサーはフィリピン進攻に強くこだわったていたとのことです。海軍提督ミニッツとの個人的な確執や、「(かつて自分が在任していた)フィリピン国民との約束」という理由がまるで美談のように語られていますが、果たして軍の指揮官がそんな情緒的な理由で上層部の指示する作戦にそこまで抗う必要があったのでしょうか?
また、太平洋戦史でよく話題になる栗田艦隊「謎の反転」ですが、歴史に「もしも」は禁物とはいえ、もしも、栗田艦隊が反転せずレイテ島に向かっていれば、海上戦が不得手なマッカーサー率いる上陸艦隊は大打撃を受けていただろうし、マッカーサーの生死も危うかっただろうと言われています。太平洋戦史は栗田艦隊の判断一つで明らかに変わっていたはずなのです。世界の海戦史のほとんどを研究したというB氏も、「栗田艦隊の反転理由だけは未だに分からない」と言っています。これだけでも怪しい話ですが、敗戦後、どん底の経済状況の中、栗田艦隊関係者がどこからか資金援助を受け、現在の栗田工業を設立したのは有名な話です。このように考えると、1981年、栗田工業の社長子息がフランスで起こした猟奇事件も歴史の闇と何か関連があるように思えてなりません。ちなみに、その社長はこのブログで何度も取り上げている疑惑の企業「伊藤忠商事」からの出向社長です。(参考:パリ人肉事件)
翻って陸軍関係の話題ですが、フィリピン国内では、どこに行っても旧帝国陸軍の隠し財宝の話が話題になります。いわゆる山下財宝、M資金などの話の元になっている噂です。地元の人に聞く典型的な話は、「日本軍に借り出され、港から物資を輸送。山に穴を掘り、それを隠した後で殺され同じ場所に埋められた。その後、地元民を殺した一般兵士も上官に殺され、やはり同じ場所に埋められた。」というものです。何だか武田信玄の芸者舞台に似た話です。話を冷静に聞くと、少なくとも
・何かを運び込んで埋めていた。
・従軍労働後に殺された人(地元民・日本兵)がいる。
というのは事実のようです。私の居住する地域では、旧陸軍の敷設した立派な舗装道路が山岳部に残っているし、その近辺で実際に金塊を掘り当てた人物もいます。また、身内が日本兵に殺されたということで、今でも日本を憎んでいる一家があり、日本人の一人歩きを注意されることもあります。以上を総合して私が現地で受ける印象、それは「帝国陸軍は本当にここで戦争をしていたのだろうか?」というものです(*1)。同時に、マッカーサーがフィリピン占領に固執した事情と、フィリピン国内に帝国陸軍が隠した「何か」とは密接な関係があるのではないかという疑いが強まります。
さて、これまでに私が会った、ある歴史研究家の調査によると、戦前に存在した日比友好協会(これが正式名称かどうか自信がありません)の日本人会長は紀州徳川家直系の人物だったと言います。時系列的には、当時フィリピンの実質的支配者であったマッカーサー家と日本の徳川家がこの時点で極めて親密な関係であった可能性が伺えるのです。これを裏付けるように、敗戦後、日本に駐留したマッカーサーが採用した日本人秘書が、まさにこの徳川家の人物の子息(養子)であり、元陸軍情報部の仕官でもあった人物と聞いています。またその実の親は西部グループの生みの親で、政治家・実業家の堤康次郎であるとも聞き及んでいます。当然ながら堤義明氏や堤清二氏とも異母兄弟の関係ですが、康次郎には庶子が多くその多くが政財界に養子に出されているため、小泉純一郎、安部普三、麻生太郎、鳩山由紀夫など、近年の総理経験者、当然その親の代・祖父の代ともどこかで血が繋がっていると考えられています。裏が取れている情報ではないので断定はしませんが、現代史にご興味がある方はぜひ調べてみてください。もしも、こうした話が事実ならば、
ロスチャイルド家−マッカーサー家−徳川家−堤家→日本政財界
(フリーメーソン)
が一線で繋がることになり、太平洋戦争は特定の一族が定めた出来レースであった疑いが極めて強くなるばかりでなく、現在に至るまで日本の政財界(軍)がこれらの一族=旧華族ネットワークに支配されている構図が見えてきます。そして、その旧華族の長と呼ぶべき徳川家(主に尾張徳川)こそが、私が本ブログの日航機123便関連記事で「クロカモ」と呼ぶ、日本の闇組織の中核グループの一つであるだろうと、確信しているのです。徳川は死んでいない。というより、明治維新そのものが、初めから英米西欧諸国、薩長連合と結んだ壮大な茶番であった可能性すらあるのです。我々はそろそろ、作家司馬遼太郎氏が作り上げた虚構の現代史「司馬史観」から離れなければならないようです。
写真8:徳川の隠れ里、愛知県新城市
ここまで、フィリピンを巡る日本と米国の関係を中心に述べてきましたが、この国の政治に最大の影響力を持つ彼の国については敢えてまだ触れていません。フィリピンが最大の資金源であり、現アキノ政権を事実上の支配下に置く国家。その国家こそ、ここフィリピンにおいて日米の密約を取り持ち、日航機事件の最高機密をもコントロールする隠れた影響力を有する国家(または機関)であることが段々と分かってきました。この慰霊報告を書き上げたところで、そろそろその正体を明かす時がやってきたようです。
*1 戦争をしていたのか?:日本人帰還兵、小野田寛郎氏の話も謎が多い。現地フィリピンでは、農作物や家畜を盗み、村の婦女子を暴行する厄介者として長く迷惑がられていたと聞く。徹底抗戦を心に決め密林に篭り、日本人青年の説得に応じて姿を現したとする日本の報道とあまりに違う。日本では本人の決断で現地軍に投降したことになっているが、こちらではあまりの狼藉振りにフィリピン軍がとうとう身柄を拘束し、日本政府に引き取らせたという事になっている。どちらが真実なのか?本人は旧陸軍中野学校で訓練を受けた工作員。後のインタビューで、ラジオを自作し戦争が終わったことも、新幹線が開通したこともみんな知っていたという。事物を冷徹に判断すべき工作員が「母国は米国の傀儡だから帰りたくない、反撃を待つ」を理由に果たして現地に30年近くも留まるだろうか?日本帰還後、そんなに時間を置かず結婚相手を見つけ、半年後には兄弟のいるブラジルに移住したというのも、ちょっと考えると出来すぎた話だ。同じくグアム島からの帰還兵、横井庄一氏の場合も帰国後すぐに結婚相手を見つけている。まるで宛がわれたかのように。私は、小野田氏の場合は特に、戦後も現地で戦争とは直接関係のない何らかの特殊任務を継続していたのだろうと疑っている。
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以上、慰霊のご報告と共に、フィリピン諸島における戦争で日本陸海軍・マッカーサー上陸軍が取った奇妙な行動とその関係性を推察してみました。私が強く思うのは、もしもそのような疑念が事実であったとしたら、あの戦争における英霊の皆様の死は何だったのか?私の祖父の死はいったい何だったのか?という、率直な疑問です。それだけでも祖霊に対する大きな裏切りなのですが、仮にそれを除いても、戦後の日本は、123便事件では罪無き民間人紛争犠牲者を事故死であると嘘で誤魔化し、今回の福島原発事件では、国土を著しく穢し、国民の健康や生命まで損なおうとしています。この慰霊旅行中、私は本当に英霊の皆様の子孫として恥ずかしかった。何でこんな国になってしまったのか。私は、墓標の前でお詫びの言葉を告げると共に、母国日本のために、たとえ微力であっても、自分のできることをやり遂げますと、神々そして英霊の皆様に誓ったのです。
奉歌
ひふみゆら、ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら。
かけまくも、かしこけれども、歌たてまつる。
御まへに、歌たてまつる。弥栄み歌を。
世を救ふ、大みゐわざぞ。みことかしこし。
まさに今、神のみことを、このみみに聞く。
三千世界、救ふみわざぞ。言ただし行かな。
大神の、しきます島の、八十島やさか。
天かけり、地かける神も、みひかりに伏す。
堪へに堪へし、三千年の、イワトひらけぬ。
したたみも、いはひもとほり、神に仕へむ。
大稜威、あぎとふ魚も、ひれ伏し集ふ。
かむながら、みことの朝を、みたみすこやかに。
神の子ぞ。みたみぞ今の、この幸になく。
国原は、大波うちて、みふみを拝す。
天もなく、地もなく今を、みことに生きん。
大みつげ、八百万神も、勇みたつべし。
天地の、光となりて、みふで湧き出づ。
一つ血の、みたみの血今、湧きて止まらず。
大みこと、身によみがえる、遠つ祖神の血。
すでに吾れ、あるなし神の、辺にこそ生きん。
高鳴るは、吾か祖の血か、みつげ尊し。
吾れあらじ、神々にして、祈らせ給ふ。
天地も、極まり泣かん、この時にして。
かつてなき、大みつげなり、たたで止むべき。
天地も、極まりここに、御代生れ来ん。
大き日の、陽にとけ呼ばん、くにひらく道。
みことのり、今ぞ輝き、イワトひらけん。
宮柱、太しき建てて、神のまにまに。
抱き参らせ、大御心に、今ぞこたへむ。
言いむけ、まつろはしめし、みことかしこし。
ただ涙、せきあへず吾は、御まへに伏す。
ささげたる、生命ぞ今を、神と生まれます。
大まへに、伏すもかしこし、祈る術なし。
今はただ、いのちの限り、太道伝へむを。
祈りつつ、限りつくさん、みたみなり吾れ。
いのち越え、大きいのちに、生きさせ給へ。
ひたすらに、みことかしこみ、今日に生き来し。
言霊の、言高らかに、太陽にとけな。
天に叫び、吾れにむちうち、今日に生き来し。
あらしとなり、あまかけりなば、この心癒えむか
走りつつ、今海出づる、大き月に呼ぶ。
みみかくし、生命と生れて、遠つ祖神さか。
神々の、智は弥栄え、此処に吾れたつ。
みたみ皆、死すてふことの、ありてあるべき。
あな爽け、みたみ栄あり、神ともに行く。
さあれ吾の、生命尊し、吾を拝みぬ。
みづくとも、苔むすとても、生きて仕へん。
いゆくべし、曲の曲こと、断たで止むべき。
かへりごと、高ら白さんと、今日も死を行く。
追ひ追ひて、山の尾ことに、まつろはさんぞ。
追ひはらひ、川の瀬ことに、曲なごめなん。
みことなれば、天の壁立つ、極み行かなん。
と心の、雄たけび天も、高く鳴るべし。
まさ言を、まさ言として、知らしめ給へ。
たな肱に、水泡かきたり、御稲そだてんを。
むか股に、ひぢかきよせて、たなつつくらむ。
狭田長田、ところせきまで、実のらせ給へ。
神々の、血潮とならん、ことに生き行く。
言さやぐ、民ことむけて、神にささげん。
にぎてかけ、共に歌はば、イワトひらけん。
大き日に、真向ひ呼ばん、神の御名を。
道端の、花の白きに、祈る人あり。
拍手の、ひびきて中今の、大きよろこび。
悔ゆるなく、御まへに伏し、祝詞申すも。
祝詞せば、誰か和し居り、波の寄す如。
のりと申す、わが魂に、呼ぶ何かあり。
御まへに、額づきあれば、波の音きこゆ。
悔ゆるなき、一日ありけり、夕月に歩す。
曇りなく、今を祝詞す、幸はへたまへ。
奉る、歌きこし召せ、幸はへ給へ。
ひふみよい、むなやここたり、ももちよろづう。
(日月神示 黄金の巻 第四十四帖より)
MEMORIA IUSTI CUM LAUDIBUS ET NOMEN IMPIORUM PUTRESCET
SAPIENS CORDE PRAECEPTA SUSCIPIET STULTUS CAEDITUR LABIIS
QUI AMBULAT SIMPLICITER AMBULAT CONFIDENTER QUI AUTEM DEPRAVAT VIAS SUAS MANIFESTUS ERIT
QUI ANNUIT OCULO DABIT DOLOREM STULTUS LABIIS VERBERABITUR
VENA VITAE OS IUSTI ET OS IMPIORUM OPERIET INIQUITATEM
ODIUM SUSCITAT RIXAS ET UNIVERSA DELICTA OPERIT CARITAS
神に従う人の名は祝福され 神に逆らう者の名は朽ちる。
知恵ある心は戒めを受け入れ 無知な唇は滅びに落とされる。
完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない。
嘲りのまなざしは人を苦しめる。無知な唇は滅びに落とされる。
神に従う人の口は命の源 神に逆らう者の口は不法を隠す。
憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。
(箴言 第10章7-12節)
南の島 フィリピンより
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