読者様各位
本日で、あの悲劇的な大事件から34年目を迎えます。
私は今、日向灘に臨む宮崎県のある地方都市でこの記事を書いています。この地に来たのは、仕事での出張や夏休みのレジャーのためではありません。この大事件を理解するために、今から1700年以上前に初代神武天皇が出征し、12代景行天皇が平定に訪れたと言われるこの地を、どうしても訪ねる必要があったからです。
高所より日向灘を望む
早いもので、このブログを開設してから10年の時が経過しました。そのスタートは、単独機の事故としては世界最大と言われる、日本航空123便墜落事故の、書籍やネットで流布する様々な噂を検証することから始まったのですが、いざ調べ始めてみると、世間で囁かれている黒い噂以上に、この事故には大きな嘘があることが分かってきました。それ故、私はこの一件を「事故」ではなく「事件」と表記するようにしています。
事件の経緯を綴り続けての10年だった訳ですが、未だに真相は闇の中であるとしか言えません。それでも、一つ一つの無関係と思われれた背景が、やっとこの事件へと一つに繋がり始めた感触を掴み始めています。
本年4月頃、その経緯を「黒霧123便関連記事ガイド」という、これまでの123便関連記事を一つにまとめたリンク集として作成しました。項目毎に新たに小解説を添えておりますので、この事件が一体どういうものか理解する上で参考にしていただければ幸いです。
■天皇との関連は無視できない
多数の生存者がいたとする目撃者の証言、回収された123便以外の航空機破片、調査妨害を続ける正体不明の集団、それらはこれまでもお伝えしてきたことですが、ここ数年になって新たに分かってきたのは、「123便撃墜計画」自体が当初から存在していたとする、その計画性です。
事件の計画者がその詳細を他人に教える訳はありませんが、大きな計画ほどその準備のために人や物資の動き、通信量などが増えるものです。事件当時の1985年8月12日以前に、メディアで流されたあらゆる表象を細かく精査すると、事件発生よりも前にその兆候を示す暗示が幾らでもあることが分かってきたのです。
その代表的なものが、次の映画ポスターです。
1985年公開「007美しき獲物達」
その詳細については、本ブログ記事「James Bond Returned」をお読み頂きたいのですが、同類の通信のようなものは、当時のメディアの至る所に散見されます。それに特化して調査結果を記したものが、本ブログの「123便と芸能界の闇」シリーズとなります。
また、当時のメディアだけに限らず、2014年という、比較的最近のメディア作品にも既に過去となった123便を暗示したメッセージが表出しており、それが先月の放火事件で多くの被害者を出した京都アニメーション作品であったことに、私もショックを受けました。詳しくは(真)日本の黒い霧記事「たまこの呪い - 京都皇統代の野望」をお読みください。
このような通信文の解析から、見えてきたことが一つあります。それは、123という数字が、元来「天皇」という意味を含むことから(*)、123便の撃墜・墜落がそのまま天皇の失墜を狙うことと同意であることが分かってきたのです。
* 123=天皇:詳しくは(真)ブログ「新嘗祭イヴの呪い」をお読みください。
よって、123便撃墜計画が、当時の昭和天皇及び現天皇家の失墜を狙った一大計画であった可能性が見えてきたのです。
私は以前、日本という国はまるで中世国家だと書いたことがありますが、象徴天皇制となった現代においてなお、天皇の権威を巡って何らかの紛争があるとしたら、それは神話の海彦・山彦の説話と同じで、古代国家そのままということになります。つまり、日本という国の為政者のメンタリティは、2千年前の古代からまるで変っていないということになります。
そんなことのために、子供を含む何百人もの国民が犠牲となったとしたら、日本人は何と不幸な国民なのかと嘆くばかりです。
私は、これらの通信文を「呪い」という観点で分析していますが、123便撃墜計画が呪いとして完成するためには、一つどうしても足りない要素があります。それは、天皇その人が犠牲に会わない限り、呪いは成就しないということです。
だから、私はこう考えます
123便には当時の天皇、昭和天皇がお乗りになっていた
のだと。もちろん、昭和天皇の崩御は公式には1989年ということになっており、日時の点では全く辻褄が合いませんが、昭和天皇には、幼少のころから一緒に学び、身振り手振り、あらゆる癖までを身に着けた影武者が7人はいたと、ある筋から話を聞いています。また、本物の昭和天皇がメディアに露出したことは、生涯の間に片手ほどもなかったと言います。
要するに、メディアに現れた昭和天皇を記憶しているある一定以上の年代のほとんどは、ご本人の御影を一度も見たことがないということになります。
簡潔に言って、1989年が本当の昭和天皇の崩御かどうかなど、ほとんどどの国民が分からないのです。逆に言うと、本物の昭和天皇がいつ崩御したかどうかも分からないと言えます。その曖昧な状況を「呪いの成就」という(誠に身勝手な)論理で読み解くと、123便の機上に変装したお姿で乗られた、あるいは監禁されて荷物室などに入れられていた可能性が極めて濃厚に浮かび上がってくるのです。
そんな極論を!というご批判は尤もだと思いますが、この説を取ることにより、一つだけこれまで困難であった説明を容易にできることがあります。それは、
(呪い成就の為)生存者を一人も出そうとしなかったこと
要するに、どうして助かるべき人を助けなかったのかという、事件当日の自衛隊の不可解な行動の説明を可能とすることにあるのです。
「何だ!、呪いの成就とは!」と思われる方、前述したように、この国は鬼道の支配する古代国家同然なのです。現代科学的な合理だけでは、この事件の深層は永遠に理解し得ないでしょう。
* * *
私がなぜ、8月12日のこの日に東京、そして御巣鷹の尾根から遠く離れた場所に居るのかお分かりになられたでしょうか?123便事件という最大級の理不尽さを理解するために、天皇とは何かを知らないままでは、これより先に進めないと感じたからなのです。
遭難推定時刻は午後6時55分前後。読者様にはどうかこの時間に犠牲者全てのために祈りを捧げていただきたくお願い申し上げます。人の死の前に、陰謀だとか天皇の権威だとかは全く意味のない議論です。全ての人が人生を全うできてこそ、社会の在り方や天皇の存在に意義と価値が生まれるのです。
CUMQUE VENISSET DIES ALTERA TULIT SAGULUM ET INFUDIT AQUA ET EXPANDIT SUPER FACIEM EIUS QUO MORTUO REGNAVIT AZAHEL PRO EO
しかし翌日、彼は布を取って水に浸し、王の顔を覆ったので、王は死んだ。ハザエルが彼に代わって王となった。
(新共同訳聖書 列王記下 第8章15節)
キリストの御国にて記す
管理人 日月土
本日で、あの悲劇的な大事件から34年目を迎えます。
私は今、日向灘に臨む宮崎県のある地方都市でこの記事を書いています。この地に来たのは、仕事での出張や夏休みのレジャーのためではありません。この大事件を理解するために、今から1700年以上前に初代神武天皇が出征し、12代景行天皇が平定に訪れたと言われるこの地を、どうしても訪ねる必要があったからです。
高所より日向灘を望む
早いもので、このブログを開設してから10年の時が経過しました。そのスタートは、単独機の事故としては世界最大と言われる、日本航空123便墜落事故の、書籍やネットで流布する様々な噂を検証することから始まったのですが、いざ調べ始めてみると、世間で囁かれている黒い噂以上に、この事故には大きな嘘があることが分かってきました。それ故、私はこの一件を「事故」ではなく「事件」と表記するようにしています。
事件の経緯を綴り続けての10年だった訳ですが、未だに真相は闇の中であるとしか言えません。それでも、一つ一つの無関係と思われれた背景が、やっとこの事件へと一つに繋がり始めた感触を掴み始めています。
本年4月頃、その経緯を「黒霧123便関連記事ガイド」という、これまでの123便関連記事を一つにまとめたリンク集として作成しました。項目毎に新たに小解説を添えておりますので、この事件が一体どういうものか理解する上で参考にしていただければ幸いです。
■天皇との関連は無視できない
多数の生存者がいたとする目撃者の証言、回収された123便以外の航空機破片、調査妨害を続ける正体不明の集団、それらはこれまでもお伝えしてきたことですが、ここ数年になって新たに分かってきたのは、「123便撃墜計画」自体が当初から存在していたとする、その計画性です。
事件の計画者がその詳細を他人に教える訳はありませんが、大きな計画ほどその準備のために人や物資の動き、通信量などが増えるものです。事件当時の1985年8月12日以前に、メディアで流されたあらゆる表象を細かく精査すると、事件発生よりも前にその兆候を示す暗示が幾らでもあることが分かってきたのです。
その代表的なものが、次の映画ポスターです。
1985年公開「007美しき獲物達」
その詳細については、本ブログ記事「James Bond Returned」をお読み頂きたいのですが、同類の通信のようなものは、当時のメディアの至る所に散見されます。それに特化して調査結果を記したものが、本ブログの「123便と芸能界の闇」シリーズとなります。
また、当時のメディアだけに限らず、2014年という、比較的最近のメディア作品にも既に過去となった123便を暗示したメッセージが表出しており、それが先月の放火事件で多くの被害者を出した京都アニメーション作品であったことに、私もショックを受けました。詳しくは(真)日本の黒い霧記事「たまこの呪い - 京都皇統代の野望」をお読みください。
このような通信文の解析から、見えてきたことが一つあります。それは、123という数字が、元来「天皇」という意味を含むことから(*)、123便の撃墜・墜落がそのまま天皇の失墜を狙うことと同意であることが分かってきたのです。
* 123=天皇:詳しくは(真)ブログ「新嘗祭イヴの呪い」をお読みください。
よって、123便撃墜計画が、当時の昭和天皇及び現天皇家の失墜を狙った一大計画であった可能性が見えてきたのです。
私は以前、日本という国はまるで中世国家だと書いたことがありますが、象徴天皇制となった現代においてなお、天皇の権威を巡って何らかの紛争があるとしたら、それは神話の海彦・山彦の説話と同じで、古代国家そのままということになります。つまり、日本という国の為政者のメンタリティは、2千年前の古代からまるで変っていないということになります。
そんなことのために、子供を含む何百人もの国民が犠牲となったとしたら、日本人は何と不幸な国民なのかと嘆くばかりです。
私は、これらの通信文を「呪い」という観点で分析していますが、123便撃墜計画が呪いとして完成するためには、一つどうしても足りない要素があります。それは、天皇その人が犠牲に会わない限り、呪いは成就しないということです。
だから、私はこう考えます
123便には当時の天皇、昭和天皇がお乗りになっていた
のだと。もちろん、昭和天皇の崩御は公式には1989年ということになっており、日時の点では全く辻褄が合いませんが、昭和天皇には、幼少のころから一緒に学び、身振り手振り、あらゆる癖までを身に着けた影武者が7人はいたと、ある筋から話を聞いています。また、本物の昭和天皇がメディアに露出したことは、生涯の間に片手ほどもなかったと言います。
要するに、メディアに現れた昭和天皇を記憶しているある一定以上の年代のほとんどは、ご本人の御影を一度も見たことがないということになります。
簡潔に言って、1989年が本当の昭和天皇の崩御かどうかなど、ほとんどどの国民が分からないのです。逆に言うと、本物の昭和天皇がいつ崩御したかどうかも分からないと言えます。その曖昧な状況を「呪いの成就」という(誠に身勝手な)論理で読み解くと、123便の機上に変装したお姿で乗られた、あるいは監禁されて荷物室などに入れられていた可能性が極めて濃厚に浮かび上がってくるのです。
そんな極論を!というご批判は尤もだと思いますが、この説を取ることにより、一つだけこれまで困難であった説明を容易にできることがあります。それは、
(呪い成就の為)生存者を一人も出そうとしなかったこと
要するに、どうして助かるべき人を助けなかったのかという、事件当日の自衛隊の不可解な行動の説明を可能とすることにあるのです。
「何だ!、呪いの成就とは!」と思われる方、前述したように、この国は鬼道の支配する古代国家同然なのです。現代科学的な合理だけでは、この事件の深層は永遠に理解し得ないでしょう。
* * *
私がなぜ、8月12日のこの日に東京、そして御巣鷹の尾根から遠く離れた場所に居るのかお分かりになられたでしょうか?123便事件という最大級の理不尽さを理解するために、天皇とは何かを知らないままでは、これより先に進めないと感じたからなのです。
遭難推定時刻は午後6時55分前後。読者様にはどうかこの時間に犠牲者全てのために祈りを捧げていただきたくお願い申し上げます。人の死の前に、陰謀だとか天皇の権威だとかは全く意味のない議論です。全ての人が人生を全うできてこそ、社会の在り方や天皇の存在に意義と価値が生まれるのです。
CUMQUE VENISSET DIES ALTERA TULIT SAGULUM ET INFUDIT AQUA ET EXPANDIT SUPER FACIEM EIUS QUO MORTUO REGNAVIT AZAHEL PRO EO
しかし翌日、彼は布を取って水に浸し、王の顔を覆ったので、王は死んだ。ハザエルが彼に代わって王となった。
(新共同訳聖書 列王記下 第8章15節)
キリストの御国にて記す
管理人 日月土