今日は広島で「原爆が投下された」と言われる日です。この原爆投下については諸説ありますが、多くの市民が犠牲になったのは事実です。
経緯はともあれ、人の愚かさが招いた悲劇であるのは間違いなく、このような出来事を「二度と繰り返さない」という決意は永遠に守られるべき誓いでありましょう。
(以下略)
引用元:NHK NEWS WEB https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230806/k10014154421000.html
広島の悲劇から今年でもう78年目を迎えます。私が残念なのは、市民の悲惨な姿は繰り返し繰り返し強調されているにも拘わらず、「原爆」や「投下」という説の事実確認がロクに行われていないことなのです。
原爆どころか「核分裂」という科学的事象の存在すら仮説に過ぎないのに、どうして私たちはそれが既成事実であると突っ走るのでしょうか?
関連記事:核爆弾は概念
そして、私たちは78年前どころか、現在の広島の現状についても何も事実を知らされていないのです。
先月、ブログ記事「中国電力本店の地下電源」では、広島市内にある中国電力の本店が、市内・及び周辺市町村にある「地下電源」からその電源を得ているという事実を公表しました。そして、その発電方式がいずれも
原子力発電
であることも同時にお伝えしています。
原子力発電とは、結局のところ金属を発熱させてお湯を沸かし、発生した蒸気でタービンを回すというただそれだけの機構であり、その仕組み自体は、火力などとも大きな違いはありません。
ある意味、金属を発熱体に変換させるノウハウがあればできることでもあり、そこに「核物理学」は必ずしも必要とされないのです。もちろん、発熱反応を止めた金属は、現代科学で言うところの「放射性廃棄物」となるのです。
78年前当時、大電力を要する市電が既に走っていたことから、広島市内の地下電源はその当時いくつか存在しており、同上記事で指摘した電源サイトの中にも1800年代に建築されたものが幾つか含まれています。
要するに
広島の地下には、当時既に大量の放射性物質があった
と考えられる訳で、この事実を無視して、広島の悲劇の全体像は語れないのです。何故ならば、仮に「原爆」という事実が無くても、広島市内を核汚染することは可能だったからなのです。
ケロイド症状などについては、「広島の原爆はなかった」の冒頭で示した武田さんの絵が一つの傍証となります。
武田さんの絵
武田さんは空中に生じた赤色の発光体を目撃し、それを絵に描き残したのですが、もしもこれが核爆発であったのならば、武田さんは絵を描き残せなかっただけでなく、良くても失明は免れなかったはずです。
これは、空中に形成されつつあるプラズマ球の発光現象であると考えられ、これにより電気的にガンマ線を空中放出する条件が構築されたと考えられるのです。これで、「放射能」と「放射光」については説明が付くのです。
残りは、市内を吹き飛ばした「大爆発」なのですが、これについても、プラズマの性質を応用した気化爆弾の形成で説明可能なのですが、これについては技術的な説明をするのに前段階の知識が必要なので、ここでは詳細を省略します。
つまり、「原爆」という概念を持ち出さなくても、当時の技術で広島の悲劇を作り出すことは可能であり、むしろナノ秒単位の時間制御、ミクロン単位の加工精度が求められる爆縮レンズなどよりは、よほど実現が容易であったと考えらえるのです。
もちろん、この代替「原爆」には大電力が必要なのですが、その電力については既に広島の地下にあった電力源から引っ張ることが可能であったのです。
* * *
広島では独自の「平和教育」が行われていると聞きますが、19箇所ある現在稼働中の中国電力本店に接続可能な地下電源(原発)の内、その半数近い9サイトが
公立小学校の地下に作られている
ことは注目に値します。
私は、別にその事実の善悪をここで問うつもりはありませんが、少なくとも、幼い彼らやその保護者に事実を正確に伝えていないのは確かなのです。
そんなことも正直に言い出せないのに、「過ちは繰り返しませぬから」と言ったところで、その誓いが果たして犠牲者の心に届くのか、甚だ疑問であると言わざるを得ないのです。
ET UNUSQUISQUE MALUM CONTRA AMICUM SUUM NE COGITETIS IN CORDIBUS VESTRIS ET IURAMENTUM MENDAX NE DILIGATIS OMNIA ENIM HAEC SUNT QUAE ODI DICIT DOMINUS
「互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む」と主は言われる。
(ゼカリヤ書 第8章17節)
キリストの御国にて記す
管理人 日月土
経緯はともあれ、人の愚かさが招いた悲劇であるのは間違いなく、このような出来事を「二度と繰り返さない」という決意は永遠に守られるべき誓いでありましょう。
(以下略)
引用元:NHK NEWS WEB https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230806/k10014154421000.html
広島の悲劇から今年でもう78年目を迎えます。私が残念なのは、市民の悲惨な姿は繰り返し繰り返し強調されているにも拘わらず、「原爆」や「投下」という説の事実確認がロクに行われていないことなのです。
原爆どころか「核分裂」という科学的事象の存在すら仮説に過ぎないのに、どうして私たちはそれが既成事実であると突っ走るのでしょうか?
関連記事:核爆弾は概念
そして、私たちは78年前どころか、現在の広島の現状についても何も事実を知らされていないのです。
先月、ブログ記事「中国電力本店の地下電源」では、広島市内にある中国電力の本店が、市内・及び周辺市町村にある「地下電源」からその電源を得ているという事実を公表しました。そして、その発電方式がいずれも
原子力発電
であることも同時にお伝えしています。
原子力発電とは、結局のところ金属を発熱させてお湯を沸かし、発生した蒸気でタービンを回すというただそれだけの機構であり、その仕組み自体は、火力などとも大きな違いはありません。
ある意味、金属を発熱体に変換させるノウハウがあればできることでもあり、そこに「核物理学」は必ずしも必要とされないのです。もちろん、発熱反応を止めた金属は、現代科学で言うところの「放射性廃棄物」となるのです。
78年前当時、大電力を要する市電が既に走っていたことから、広島市内の地下電源はその当時いくつか存在しており、同上記事で指摘した電源サイトの中にも1800年代に建築されたものが幾つか含まれています。
要するに
広島の地下には、当時既に大量の放射性物質があった
と考えられる訳で、この事実を無視して、広島の悲劇の全体像は語れないのです。何故ならば、仮に「原爆」という事実が無くても、広島市内を核汚染することは可能だったからなのです。
ケロイド症状などについては、「広島の原爆はなかった」の冒頭で示した武田さんの絵が一つの傍証となります。
武田さんの絵
武田さんは空中に生じた赤色の発光体を目撃し、それを絵に描き残したのですが、もしもこれが核爆発であったのならば、武田さんは絵を描き残せなかっただけでなく、良くても失明は免れなかったはずです。
これは、空中に形成されつつあるプラズマ球の発光現象であると考えられ、これにより電気的にガンマ線を空中放出する条件が構築されたと考えられるのです。これで、「放射能」と「放射光」については説明が付くのです。
残りは、市内を吹き飛ばした「大爆発」なのですが、これについても、プラズマの性質を応用した気化爆弾の形成で説明可能なのですが、これについては技術的な説明をするのに前段階の知識が必要なので、ここでは詳細を省略します。
つまり、「原爆」という概念を持ち出さなくても、当時の技術で広島の悲劇を作り出すことは可能であり、むしろナノ秒単位の時間制御、ミクロン単位の加工精度が求められる爆縮レンズなどよりは、よほど実現が容易であったと考えらえるのです。
もちろん、この代替「原爆」には大電力が必要なのですが、その電力については既に広島の地下にあった電力源から引っ張ることが可能であったのです。
* * *
広島では独自の「平和教育」が行われていると聞きますが、19箇所ある現在稼働中の中国電力本店に接続可能な地下電源(原発)の内、その半数近い9サイトが
公立小学校の地下に作られている
ことは注目に値します。
私は、別にその事実の善悪をここで問うつもりはありませんが、少なくとも、幼い彼らやその保護者に事実を正確に伝えていないのは確かなのです。
そんなことも正直に言い出せないのに、「過ちは繰り返しませぬから」と言ったところで、その誓いが果たして犠牲者の心に届くのか、甚だ疑問であると言わざるを得ないのです。
ET UNUSQUISQUE MALUM CONTRA AMICUM SUUM NE COGITETIS IN CORDIBUS VESTRIS ET IURAMENTUM MENDAX NE DILIGATIS OMNIA ENIM HAEC SUNT QUAE ODI DICIT DOMINUS
「互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む」と主は言われる。
(ゼカリヤ書 第8章17節)
キリストの御国にて記す
管理人 日月土