☆日本の核開発に関する海外の報道(その2)
前回に引き続き、DC BUREAU の記事「米国政府は法の目を盗み、日本がトン単位でプルトニウムを蓄積するのを許していた(記:ジョセフ・トレント 2012年4月9日、日本語訳:日月土)」の日本語訳出を掲載します。今回は、日本の核兵器開発計画の歴史的経緯として、太平洋戦争中に、日本でどのような研究開発が行われていたか、また、敗戦後どのような経緯で核開発を再開したか、等について説明が記されています。
今回の内容については、明らかに事実誤認と思われるものも含まれているので、それについては、引用文に続いて解説を加えたいと思います。
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http://www.dcbureau.org/201204097128/national-security-news-service/united-states-circumvented-laws-to-help-japan-accumulate-tons-of-plutonium.html#more-7128
F号計画:日本で最初の核兵器開発計画
F-Go: The First Japanese Nuclear Weapons Program
1940年代初頭、世界が人類史上最も血生臭い紛争に懸かりっきりだった頃、ドイツ、イギリス、アメリカ、そして日本の科学者たちは、信じられない程の破壊力を持つ兵器を原子核の中に見出そうとしていた。理論上の話をまさに現実化せんとするこの開発レースは、工業生産力戦争の様相を以ってして、何百万人もの命を奪った先の大戦に、秘められた意味合いを持たすことになった。理論物理学の世界では、日本はライバルであるヨーロッパやアメリカと肩を並べていた。日本に欠けていたのは、原材料とそこから原爆を作り出す工業的な余力そのものであった。しかし、資源や設備がなければ日本がどんなに戦争に突き進んでも無意味なものであった。
In the early 1940s, with the world locked in the bloodiest conflict in human history, scientists in Germany, Great Britain, the United States and Japan struggled to unlock from the atom a weapon of almost inconceivable power. This race to turn theory into devastating reality formed a secret subtext to the war that destroyed millions of lives using industrial warfare. In the area of theoretical physics, Japan was as advanced as her European and American rivals. She lacked only the raw materials and the sheer industrial excess to turn those materials into an atomic bomb. But Japan’s war machine was nothing if not resourceful.
写真1:仁科芳雄博士
1940年(昭和15年)より、日本の科学者は精力的に核連鎖反応の研究に取り組んできた。仁科芳雄博士などは、原子核物理分野における戦前の業績がノーベル賞候補にノミネートされたほどだ。博士と若い科学者たちのチームは理研(理化学研究所)において不眠不休で研究を進めた。2年程の基礎研究の後、F号計画と呼ばれた原爆製造計画は1942年に京都で始まった。1943年までに、日本のマンハッタン計画は、爆弾製造に必要なウラン(U235)を分離生成させるサイクロトロンの製作だけに留まらず、核の知られざる力を解放するための十分な知識を有した、原子核科学者のチームを作り上げてきた。アメリカがワシントン砂漠に建設したウラン濃縮プラントは、グランドクリーダムの全発電量という膨大な電力を必要とした。日本の科学者たちは、原爆製造のため国家に十分なウラン鉱石を回すよう求めたが、その結果はあまり芳しいものでなかった。
Since 1940, the Japanese had been aggressively researching the science of the nuclear chain reaction. Dr. Yoshio Nishina had been nominated for the Nobel Prize for his pre-war work in nuclear physics. Now he and a team of young scientists worked tirelessly at the Riken, the Institute of Physical and Chemical Research, to beat the Americans to the bomb. After two years of preliminary research, the atom bomb program called F-Go began in Kyoto in 1942. By 1943, Japan’s Manhattan Project had not only produced a cyclotron that could separate bomb-grade uranium, but also had developed a team of nuclear scientists with the knowledge to unleash the atom’s unknown power. As America built a uranium enrichment plant in the Washington desert so enormous it drew every watt of electricity from the Grand Coulee Dam, the Japanese scoured their empire for enough raw uranium to make their own bomb, with only limited success.
日本はナチスドイツにも援助を求めた。当時、ナチス政権も原爆開発を推進していた。しかし、1945年(昭和20年)の初頭には、連合軍はライン川に迫り、ロシア軍はプロシアを制圧していた。最後の望みとして、ヒトラーはUボートに1200ポンドのウランを積んで日本に向けて出航させた。この潜水艦は日本に着くことはなかった。1945年の5月、アメリカの艦船がこれを拿捕したのだ。乗船していた二人の日本人担当官は自殺し、ウランの積荷はオークリッジに運ばれた。ウラン無くして、日本はたった1,2個の小型原爆すら製造し得なかったであろう。
Japan looked to Nazi Germany for help. The Nazis, too, had been pursuing the nuclear bomb. But, by early 1945, the Allies were on the Rhine and the Russians had taken Prussia. In a last-ditch effort, Hitler dispatched a U-boat to Japan loaded with 1,200 pounds of uranium. The submarine never arrived. American warships captured it in May 1945. Two Japanese officers on board the submarine committed suicide and the shipment of uranium was diverted to Oak Ridge, Tennessee, for use in the American Manhattan Project. Without the uranium, Japan could not produce more than one or two small atomic bombs.
両国の原爆製造計画がほぼ完成に近づいた1944年(昭和19年)、ダグラス・マッカーサー将軍の蛙飛び作戦は日本本土に迫っていた。B29の編隊は東京や他の主要都市に焼夷弾の雨を降り注いだ。仁科博士はそれまでの研究成果を現在北朝鮮にある興南(訳注:Hungnam-現咸興市内の区域)という小さな寒村に移す必要に迫られた。移転には3ヶ月を要した。
As the bomb programs in both countries neared completion in 1944, General Douglas MacArthur’s island-hopping campaign drew closer to Japan’s home islands. Fleets of B-29 bombers rained fire on Tokyo and other major cities. Nishina had to move his effort to the tiny hamlet of Hungman in what is now North Korea. The move cost the Japanese program three months.
1945年(昭和20年)8月6日、エノラ・ゲイは一発の原子爆弾を広島に投下した。爆発の直接の被害で7万人以上が死亡し、数日、数週間が経過して後、更に数千人の死亡者がそれに続いた。
On August 6, 1945, the Enola Gay dropped a single atomic bomb over Hiroshima. The blast killed more than 70,000 people outright, and in the days and weeks to come thousands more succumbed.
仁科博士が爆発の一報を聞いたとき、彼は直ぐに、アメリカの科学者たちに先を越されたことを悟った。しかし、彼は自身の携わった原爆が首尾よく行くことに、密かに確信を持っていた。仁科博士と彼の研究チームは不眠不休の働きで、動作テストができる所までこぎ着けたのだ。ロバート・ウィルコックスのような歴史家やアトランタ・ジャーナル・コンスティテューションのライター、デビッド・シェルは、日本が原爆製造に成功したと信じている。ウィルコックスは1945年(昭和20年)8月12日、長崎の原爆投下から3日後、そして日本敗戦の3日前に、部分的にせよ日本は興南での実験に成功したと書いている。しかし、その時までの奮闘は単に象徴的なものでしかなかった。如何せん、日本にはそれ以上兵器を生産することも、兵器を確実にアメリカまで運ぶ手段も持ち合わせていなかったのだから。
When word of the blast reached Nishina, he knew immediately that the Americans had beaten him to the prize. But he also had implicit confirmation that his own atomic bomb could work. Nishina and his team worked tirelessly to ready their own test. Historians such as Robert Wilcox and Atlanta Journal Constitution writer David Snell believe that they succeeded. Wilcox writes that on August 12, 1945 - three days after the Nagasaki bombing and three days before Japan signed the articles of surrender - Japan tested a partially successful bomb in Hungnam. By then the effort was merely symbolic. Japan lacked the means to produce more weapons or to deliver them accurately to the United States.
日本の復興が進むにつれて、広島・長崎における原爆攻撃は、それが、アメリカが日本に対して行った非人道的行為であると同様に、大日本帝国の野望に潜む愚かさの一面を象徴する行為として認識されるようになった。そして、日本の人々は核兵器に対して嫌悪感を抱くようになった。日本のリーダーたちも同じ認識を共有していたのだが、核兵器開発競争の末席に居座り続け、それに加えてなお、核爆弾の戦略的価値に傾倒を深めてきたのである。
As Japan rebuilt after the war, the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki came to represent the folly of Japan’s imperial aspirations as well as American inhumanity toward the Japanese. The Japanese people held nuclear weapons in abhorrence. Japan’s leaders shared that view, but, having been on the receiving end of nuclear warfare, also developed a special appreciation for the bomb’s strategic value.
終戦後、数万人ものアメリカ軍人が日本を占領した。原爆による攻撃後、アメリカは、この破壊力を手にしたいとの願望とそれを手にするだけの能力が世界に蔓延してしまうのを恐れた。ワシントンは、日本がそれまでの想定以上に、独自に核爆弾を保有する能力が高いことを知った。日本の核兵器開発能力を壊滅させることに高い優先順位が与えられた。国際的な核不拡散条約を協議することに加え、アメリカ占領軍は、日本の核開発計画が再開されないよう、数機のサイクロトロンと、核爆弾開発計画の痕跡を残すものを破壊した。占領軍は、F号計画の物理的な残存物を消滅させることはできたかもしれないが、仁科博士や彼の研究チームが戦争中に築き上げた膨大な知識体系までは破壊し得なかったであろう。
As the war ended, thousands of American troops occupied Japan. After the nuclear attacks on Japan, the United States feared that the desire and ability to create this power would spread throughout the world. Washington learned that Japan had been much closer to its own nuclear bomb than previously thought. Destroying Japan’s nuclear-weapons capability became a high priority. In addition to negotiating international non-proliferation agreements, U.S. occupation troops destroyed several cyclotrons and other vestiges of Japan’s atomic bomb project to prevent Japan from resuming its nuclear program. Though the troops could demolish the physical remnants of the F-Go project, they could not destroy the enormous body of knowledge Nishina and his team had accumulated during the war.
(つづく)
-----引用(ここまで)-----
■二つの原爆製造計画
戦時中の日本の核兵器開発については、保阪正康さんの記された『日本の原爆−その開発と挫折の道程』(2012年4月 新潮社)に詳しく記述されています。この本によると、記録に残る戦時中の核兵器製造計画には次の二つがあったと述べられています。
(1)ニ号計画(戦時研究37−1)
管轄:陸軍航空本部
研究主体:理化学研究所 仁科芳雄研究室
主な研究員:湯川秀樹、朝永振一郎、玉木英彦、武谷三男、他
(2)F号計画(戦時研究37-2)
管轄:海軍艦攻本部 第二火薬廠技術研究所
研究主体:京都大学 荒勝文策研究室
主な研究員:湯川秀樹、坂田昌一、小林稔、他
仁科博士が担当していたのは、(1)のニ号計画の方であって、NSNSが伝えるように(2)のF号計画ではありません。保坂氏は昭和50年代に両計画の研究担当者に直接面談して話を聞いており、当時の研究員はお互いの存在は知っていても、積極的な交流はなく、むしろ陸海軍の対立構造よろしく、ライバル意識を抱いていたとも言います。また、荒勝博士は仁科博士とはまったく性格が異なる研究者であったとの証言もあり、仁科博士がF号計画を統括していたとする記述は、正しくはニ号計画であることの誤りであろうと考えられます。それは、本記事の中で研究室の所在が「理研(Riken)」と記されていることからも推察できます。
写真2:「日本の原爆」
開発当事者へのインタビュー記録がたいへん貴重な良書である
■「今次の戦争中に原爆完成は不可能」−研究者の思い
『日本の原爆』が示す内容で、NSNSの記事と決定的に異なるのは、原爆製造に関わった研究者の誰しもが、「今次の戦争中に原爆完成は不可能」という思いを抱いていたという点です。ですから、この記事が示すように、「日本が原爆製造に成功した」ような事実は一切無かったであろうとほぼ断言しています。また、両研究室が本格的に原爆製造研究に取り組んだのは、敗戦色が漂い始めた1944年(昭和19年)のことであるとしており、同記事が伝えるように「1942年に京都で(研究が)始まった」というのは、研究の開始時期に大きく齟齬が生じます。もっとも、軍内で調査検討会程度のものはあったかもしれませんが。これらの点について、米国人の記者や歴史学者が旧敵国の戦力を高めに評価することは、ある程度仕方がないことのように思われます。
一方、日本がなぜ原爆を製造し得なかったか、その理由については意見を同じくしています。それは、本記事で「資源や設備がなければ日本がどんなに戦争に突き進んでも無意味なものであった」とあるように、『日本の原爆』でも、両研究室は原爆製造に必要なだけのウラン鉱石すら入手するのが困難であったと伝えています。
■8月12日の暗号
これは余談になりますが、NSNSの記事が1945年(昭和20年)の8月12日を「日本の原爆完成の日」としているのは興味を惹きます。8月12日とは日航機事件が発生した日とちょうど同じ日です。911や311など、大事件が起きる日付の数字に意味を持たせるのは、闇組織が好んで使う「仄めかし」の常套手段と考えられるからです。
この辺の解析については「日本の陰謀」氏が卓越していますが、812の月日を入れ替えて128とすると、「日米会戦の日」ともなります。そして、かなり強引な解釈となりますが、その入れ替えの意味合いも含めて、8月12日とは、「日本が核で米国に報復する日」と取れなくもありません。
それならば、何故日本の航空会社を狙うのか論理的な矛盾も感じますが、大陸に逃れた旧陸軍系組織にとって、米国の傀儡となった日本など、ましてや米国製航空機を運用する航空会社など日本とは見なさないということだったのかもしれません。
これを証明することは不可能ですし、今後も証明されることはないかもしれませんが、少し気になったので、ここに書き残しておきます。
■記録なき戦史?旧陸軍と北朝鮮
『日本の原爆』で一切触れられず、本記事にはあるもの。それは、「仁科博士はそれまでの研究成果を現在北朝鮮にある興南という小さな寒村に移す必要に迫られた」とあるように、研究場所が国外に移されたという部分です。『日本の原爆』では、本土空襲で研究施設のほとんどが使用不能となり、研究の継続は困難となって、二号計画は中止に追い込まれたとしています。NSNSが何を参照して調査したのか不明ですが、どうしてここで北朝鮮が出てくるのでしょうか?
実は、本ブログの「蘇る亡霊(15)」の中でも、nqlab氏の引用として
「仁科博士の日本陸軍の研究は大陸でも行われた。その拠点は、現在北朝鮮の金策市(キムチャクし)。当時の名称は城津。日本海に面した製鉄・重工業の中心地だ。」
という部分をご紹介しました。本記事の場合は、同じ北朝鮮でも「興南」という場所に研究拠点を移したとしています。こちらも日本海に面した地域です。
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図1:興南の位置(咸興市内の一地区)
私は、どちらが正しいのかという議論よりも、違う情報ソースが北朝鮮の沿岸都市に原爆開発の拠点が移ったとしている点に注目すべきだと考えます。保阪氏は資料と証言を綿密に分析するタイプの歴史研究家で、その研究スタイルに異論を挟むつもりはありません。しかし、資料第一主義の歴史研究は、資料が無ければ史実は存在しないという、おかしな結果を生むことが考えられます。原爆研究という当時の超極秘軍事研究について、全てが管理され記録が残されていると考える方がむしろ不自然ではないでしょうか。
国内の空襲激化で、国内の研究施設は壊滅。記録上のニ号研究、F号研究はここで途絶えます。しかし、記録に残されていない他の研究機関がここで新たに誕生したか、あるいは既に存在しており、北朝鮮に移転し、他の研究機関の成果を集約した可能性も、想像の上では許されるかと思います。秘密研究機関であればこそ、二号やF号の研究員もその実態は知らされず、後年の回想で一切その話が出ないことも考えられます。知っているとすれば、各研究機関を統括する立場にいる仁科博士、荒勝博士、湯川博士などでしょうが、秘密を知る彼らが、果たして真実を後世に伝え残すでしょうか?
■北朝鮮のテポドンはオール三菱製?
nqlab氏は、北朝鮮に残された日本の原爆研究が置き土産となり、現在の核兵器開発、テポドンの開発に繋がっているとしています。これに関連して、以前、北朝鮮の軍備について、国際軍事評論家のB氏に尋ねたところ、次のようなお話を伺いました。
「北朝鮮は既に核弾頭を6発持っています。慣性誘導装置などテポドンに搭載されている主要技術は、全て中国を経由して入った三菱重工のものです。勝手に密輸されたなどというのは建前で、同社の籍を離れた元社員が実際に技術指導のために訪朝していると聞いてます。自衛隊の幕僚会議でもそれが問題となり『三菱、けしからん!』の声が上がったこともあります。」
何のことはない、国力が極めて低いと言われている北朝鮮が核兵器を持ち、長距離弾道弾を飛ばせるのは、先の大戦から現在まで、長きに渡り日本(の闇組織)の支援を受けているからと考えれば、全て合点がいきます。密輸で高性能部品を掻き集めただけでは、弾道ミサイルの制御などという高度なシステム処理ができるはずがありません。それをオーガナイズするプロのノウハウが必ず必要です。だとすれば、今年の4月のように、北朝鮮から発射される日本製ミサイルにおののき、米国製の迎撃ミサイルでそれを打ち落とそうなどという騒ぎは、面白くない吉本喜劇よりも笑えない話です。
同時に北朝鮮・中国を通じて、核技術やミサイル制御に必要な日本の精密加工技術が、ソ連や東側諸国に流れ続けていた可能性も考えなければなりません。以前お伝えしたように、中国北京政府の諜報機関は旧帝国陸軍(関東軍)により構築され、戦後も伊藤忠元会長、旧帝国陸軍参謀の瀬島龍三氏の人脈をなど通して深く繋がっていた可能性が考えられるのです。中国が核ミサイル配備を早期に達成できた理由とは、日本の闇組織を通した技術支援の賜物と考えられなくもありません。一方、米国監視の下、平和憲法を掲げる日本は、核兵器具現化の夢をアジア共産圏諸国に仮託したのだとも考えられるのです。
これに関連して、日航機事件発生の前年(1984年)にかけて、東芝がソ連に高度な潜水艦建造技術を売り渡していたという、東芝ココム違反事件(Wikipedia)や、日立製作所や三菱電機、富士通がIBMのオペレーティング・システム技術を不正に入手したとされるIBM産業スパイ事件(Wikipedia)に見られるように、日航機事件発生の前後、米国の軍事・司法筋が日本企業の動きに対して非常に敏感になっていたという事実は見逃せません。
話は脱線しましたが、史実に残らない日本の原爆製造技術の北朝鮮への移転は、今回のテポドン騒ぎからも推察できるように、決してありえない話ではないと思えるのです。
写真3:北朝鮮のテポドン(三菱製?)
以下引用を続けます。
-----引用(ここから)-----
日本の核開発計画の始まり
The Beginning the Japan’s Nuclear Program
戦後数年が経過し、F号計画に関わった人員は、日本の原子力エネルギー政策のリーダーとなっていった。彼らにとっての最優先事項とは、国内で核の研究を継続するために必要十分なウランを確保することであった。
In the years to come the men behind F-Go would become the leaders of Japan’s nuclear power program. Their first priority was to stockpile enough uranium to ensure that nuclear research could continue in Japan.
戦争とそれを終結させた原爆の威力は、日本人にいつまでも消えない強烈な印象を残した。彼らにとって、広島と長崎の破壊は忌まわしいものであった。しかし、日本の指導者層は、核こそエネルギーの海外依存に取って代る道であると認識した。エネルギーの海外依存は、工業化時代に参入した当初から日本にとっての足枷だったのである。
The war and the atomic blasts that ended it left a strong and enduring impression on the Japanese people. They abhorred the destruction of Hiroshima and Nagasaki. But the Japanese leadership recognized that in nuclear power there was an alternative to foreign energy dependence, a dependence that had hindered Japan since her entry into the industrial era.
日本の降伏によって、アメリカは太平洋地域において強大な力を持つようになった。しかし、1949年(昭和24年)に中国で共産党政権が誕生し、ソビエト連邦が核実験に成功すると、その地位も脅かされるようになった。共産主義政権が太平洋地域でアメリカを脅かし続けるようになると、日本に対する見方も征服された敵対者から価値ある同調者へと突如として変貌した。
With the surrender of Japan, the United States became the preeminent power in the Pacific. But that position was challenged in 1949 with the communist victory in China and successful nuclear tests by the Soviet Union. The communists were challenging America in the Pacific, and Japan suddenly shifted from vanquished adversary to valuable ally.
1952年(昭和27年)に北朝鮮軍が南に押し寄せたとき、アメリカは全くそれに対応できなかった。貧弱な兵装と未熟なアメリカ海兵隊は、日本海を背に釜山で取り囲まれてしまった。陸軍司令官だったダグラス・マッカーサー将軍は、この時、朝鮮戦争において初めて、トゥルーマン大統領に核兵器の使用を許可するよう働きかけた。
The United States was completely unprepared when North Korean troops swarmed south in 1952. Soon poorly armed, under-trained American Marines were surrounded in Pusan with their backs to the sea. For the first of many times during the Korean War, the American military commander, Gen. Douglass MacArthur, lobbied President Truman to use nuclear weapons.
核兵器は日本の沖縄に保管されていた。アメリカ軍が釜山で全滅の危機に瀕していたとき、アメリカのB-29は中国と朝鮮の目標を(原爆で)爆撃するため、エンジン始動のまま待機していた。朝鮮戦争後期、中国軍が朝鮮に侵入した時には、日本を飛び立った核爆弾を搭載した爆撃部隊が、中国と北朝鮮の領空にまさに突入せんとするところだった。1機のジェット戦闘爆撃機がこの時撃墜された。
Those weapons were stored on the Japanese island of Okinawa. While American troops faced annihilation in Pusan, American B-29s waited with engines running to bomb targets in China and Korea. Later in the war, when Chinese troops entered Korea, nuclear-laden bombers flying from Japan would actually penetrate Chinese and North Korean airspace. One jet fighter bomber was shot down.
朝鮮戦争は日本にとって指標ともなるべき重要な出来事である。3千年の長き歴史において最も屈辱的な敗戦を経験した、そのたった7年後に、日本は、彼らを打ち負かした同じ敵軍のために、軍事拠点として自国を差し出したのだ。その時、日本独自の軍隊は事実上存在しなかった。アメリカ兵が東京の安売春宿を頻繁に訪れるがごとく、屈辱的にも、日本の防衛は全てアメリカの手に握られていたのが実状であった。トゥルーマン大統領が中国相手に核による瀬戸際外交を行っている最中、日本の防衛が、まさに第二次大戦で自国を敗戦に追いやった、その核爆弾に依存していることが明から様となった。
The Korean War is an important milestone for Japan. Only seven years after the most humiliating defeat in its three-thousand-year history, Japan served as the staging ground for the same military that had defeated her. Japan’s own military at the time was practically nonexistent. As humiliating as the American servicemen who frequented Tokyo’s nickel brothels was the realization that Japan’s defense was wholly in American hands. As Truman played the game of nuclear brinkmanship with the Chinese, it became apparent that Japan’s defense now relied on the same nuclear bombs that had sealed her World War II defeat.
1950年代初期、アメリカ政府は東京の日本政府に核ビジネスに参入するよう積極的に働きかけた。核エネルギーの凄まじい破壊力を目の当たりしていることもあり、アイゼンハワー大統領は核を厳重な監視の下に置くことに決めた。彼はまた、世界が核分裂技術によるアメリカの一国支配を決して歓迎しないだろうとも理解していた。そこで、彼はそれに替わる方針を打ち出した。「核の平和利用」である。アイゼンハワーは日本やインドのようにエネルギー資源が少ない国々に、技術面、経済面、そしてモラル面における支援と共に、核反応炉を提供したのである。経済と社会インフラを再建する自国資源に乏しい日本は、慢性的なエネルギー欠乏状態である自国経済への処方箋として、すぐさま核エネルギーに飛びついた。
In the early 1950s, the United States aggressively urged Tokyo to get involved in the nuclear power business. Having witnessed the destructive power of nuclear energy, President Eisenhower was determined to keep it under strict control. He also realized that the world would never accept a complete U.S. monopoly on atom-splitting technology, so he developed an alternative - Atoms for Peace. Eisenhower gave resource-starved countries like Japan and India nuclear power reactors as a form of technical, economic and moral support. Lacking the indigenous resources to rebuild its economy and infrastructure, Japan quickly turned to nuclear power as the answer for its chronically energy-starved economy.
図2:IAEAロゴ
(訳者注:「Atoms For Peace(核の平和利用)」ですかぁ。なるほど)
アメリカの「核の平和利用」プログラムに乗じ、日本は核エネルギー産業における全領域に渡って発展を促すことになる。日本は大勢の科学者を核エネルギー開発のトレーニングのため、アメリカに派遣した。戦後、国際社会での活躍の場を再び獲得することも、かつての発言権や政治力を呼び戻すことにも絶望感を覚えた日本政府は、核反応炉や実験施設の建設に、なけなしの予算を喜んで注ぎ込んだのである。
With the help of the American Atoms for Peace program, Japan began to develop a full-scale nuclear power industry. The Japanese sent scores of scientists to America for training in nuclear energy development. Desperate to regain a foothold in the international arena and reclaim its sovereignty and power after the war, the Japanese government willingly spent scarce funding on research labs and nuclear reactors.
日本の戦時における経験は、核産業をゼロから作り上げるための下準備とはなった。しかし、核の平和利用という掛け声の下で、すでに完成している核反応炉を西側から輸入する方がより安価であった。
Japan’s wartime experience had prepared her to build a nuclear industry from scratch, but with Atoms for Peace, it was cheaper to import complete reactors from the West.
「核の平和利用」はアメリカに限らず、イギリスやカナダの核を輸出に向けさせる後押しとなった。まず初めに、イギリスがマノックス(Magnox)のプラントを日本に売りつけた。GEやウェスティングハウスもすぐさま生産余力を確保して、反応炉の設計図や関連部品を法外な値段で日本に売りつけた。日本の核産業界は、短期間の内に、核の平和利用を志す国のモデルと呼ばれるまでになった。若く優秀な日本人科学者の一世代はこの頃に出現し、全員が核エネルギー分野の開拓に全精力を注いだのである。
Atoms for Peace supported British and Canadian nuclear exports as well as American. Britain went first, selling its Magnox plant to Japan. General Electric and Westinghouse rapidly secured the rest of the industry, selling reactor designs and components to Japan at exorbitant prices. The Japanese industry quickly became a model for other Atoms for Peace countries. A generation of brilliant young Japanese scientists came of age during this period, all committed to the full exploitation of nuclear energy.
一度核産業が活性化されると、日本はアメリカから独立した独自の核研究を再開するようになった。アメリカの核産業に刺激され、1956年(昭和31年)、日本の官僚は包括的な核燃料サイクルの構築を目指す青写真を示した。その時は、核燃料サイクルの概念は理論的なものにすぎず、それは、1939年(昭和14年)にアインシュタインがあの悪名高き書簡をルーズベルト大統領へ送った際に綴られた、原子爆弾の概念以上に現実離れしたものであった。理論上では、従来の核反応炉で燃焼された使用済み燃料からプルトニウムが抽出され、そのプルトニウムはまた、増殖炉の燃料として新たに使用することができるとある。その通りの働きを現実化できる者などまだ誰もいなかった。しかし、この事こそが科学技術時代の夜明けを象徴していた。日本、そしてアメリカやヨーロッパの科学者までもが、科学進歩の可能性に夢中になっていたのだ。日本の計画立案者や官僚たちもまた、情熱を注いだのである。増殖炉計画は、日本がアメリカから輸入しているウラン原料を最も効率よく使おうとするものだった。それは、日本をアメリカへのエネルギー依存から解放し、同時に膨大な量のプルトニウム備蓄を可能にするものであった。そのプルトニウムこそ、最も強力で且つ入手が困難な核爆弾原料なのである。
Once the industry was vitalized, Japan resumed its own nuclear research independent from the United States. Encouraged by the Americans, in 1956 Japan’s bureaucrats mapped out a plan to exploit the entire nuclear fuel cycle. At that time the concept was only theoretical, no more a reality than the atomic bomb was when Einstein penned his infamous letter to Roosevelt in 1939. According to the theory, plutonium could be separated from the spent fuel burned in conventional reactors and used to fuel new “breeder reactors.” No one had yet been able to make it work, but this was the dawn of the age of technology. Scientists in Japan, America and Europe were intoxicated with the possibilities of scientific advancements. Japan’s central planners and bureaucrats were equally enthusiastic. The breeder reactor plan would make the most efficient use of the raw uranium Japan imported from the United States. It would wean Japan from her dependence on American energy and also create an enormous stockpile of plutonium - the most powerful and difficult to obtain bomb material.
(つづく)
-----引用(ここまで)-----
以上の引用は、敗戦直後の日本の核政策について書かれています。その前に朝鮮戦争についての記述がありますが、日本の経済復興が、朝鮮戦争やベトナム戦争など、米国が仕掛けた戦争と軍需によって牽引されてきたという現実も、私たち日本人は深く認識する必要があるでしょう。「日本の憂うべき現状」では三井化学の戦争加担行為の可能性を指摘しましたが、この朝鮮戦争でも、ダイキン工業が製作した砲筒が大活躍したり、日本の掃海艇が機雷を除去したりなど、戦争を放棄したはずの日本が、直接間接に米国の戦争に加担していたという事実はいくらでも見出すことができます。
結局、戦争の記憶がまだ生々しい敗戦直後ですら、第2次大戦の教訓など何一つ生かされていなかったのではないかと疑わずにはいられません。そんな精神構造のまま、いくら「平和利用」だといって核を受け入れても、その辿り着く先はどこなのか、火を見るより明らかだとも言えます。
さて、私のこの記事は日航機事件についてのものなので、ここで、日航機事件当時の首相で事件の主要登場人物の一人、中曽根康弘氏と戦後の核開発との繋がりについて、上述の『日本の原爆』から、関連箇所を抜粋してみます。
「中曽根は昭和26(1951)年ごろから原子力に関心を寄せた。その後の原子力諸案判定にも中心メンバーとなった。昭和30年には衆参両院合同の原子力合同委員会が発足したが、委員長は中曽根が務めている。」
「日本の原子核研究はアメリカの思惑や政策に振り回されていることが分かり、さらに原子物理学者よりも政治家が前面に出て動いたことが分かる。昭和31年5月に初代の科学技術庁長官のポストに就いた正力松太郎や、その後任の中曽根らによって、原子核平和利用の方向付けがされていったことが分かる。」
写真4:正力松太郎氏(左)と中曽根康弘元首相(右)
以上より、中曽根氏の並々ならない「核」への関心が伺えます。戦後の数ある首相経験者の中でも、科学技術庁長官という、王道から外れたポストを経て首相になった人物は珍しいとも言えます。中曽根氏がここまで核に拘った理由は何なのか、正力松太郎氏や瀬島龍三氏との太い人脈も含めてその点に注意すると、NSNSの調査レポートから新たな史実が見出せそうです。
* * *
文中、「記録なき戦史」という言葉を使わせていただきましたが、その意味では、日航機事件、あるいは日航機事変もそれに該当するでしょう。もしも、誰かがこの不可思議な紛争を記述し記録に残さなければ、520人の犠牲者は不幸な事故死者として永遠に歴史の中に刻まれてしまうでしょう。
日航機事件以外にも隠された歴史、というよりも歴史から消された史実は山のようにあるかと思います。その中でも敢えて日航機事件を取り扱うのは、この事件が昭和という時代の実相を斯くも象徴するからに他なりません。昭和という時代に育てられた私は、自分が生きてきた時代が何であったかを知りたいし、事件の犠牲者の皆さんに、自らの死の意味が何であったのかを伝えてあげたいのです。そうでなければ、あまりにも残酷過ぎます。
今回のNSNSの調査レポートは、全く誤りがないとは言えないまでも、多くの真実と真実への道のりを示している点では画期的です。しかし、真実とは本当に残酷です。ここに書かれていることが事実なら、ビル・トッテンさんではありませんが、戦後の日本には民主主義なるものは一度も存在しておらず、「核の平和利用」だけでなく、非核三原則も平和憲法も、「平和という雰囲気」を醸し出すだけの舞台装置でしかなかったことになります。
日航機事件はその舞台装置が綻びを見せた最初の出来事であり、取り繕いもまだ可能だったかもしれません。しかし、今回の福島原発事故は、旧式の舞台装置がもはや機能しないことをはっきりと示したように思います。しかし、それでもなお真実を直視せず、ポンコツ舞台装置の作り出す仮想世界に居ることを良しとするのが大半のように思われます。私には何も強制できませんが、それが本当に人生を生きていると言えるのかどうか、これを機に考えてくださるだけでも、ありがたいと思えるのです。
ET ERIT IN NOVISSIMIS DIEBUS PRAEPARATUS MONS DOMUS DOMINI IN VERTICE MONTIUM ET ELEVABITUR SUPER COLLES ET FLUENT AD EUM OMNES GENTES
ET IBUNT POPULI MULTI ET DICENT VENITE ET ASCENDAMUS AD MONTEM DOMINI ET AD DOMUM DEI IACOB ET DOCEBIT NOS VIAS SUAS ET AMBULABIMUS IN SEMITIS EIUS QUIA DE SION EXIBIT LEX ET VERBUM DOMINI DE HIERUSALEM
終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。
(イザヤ書 第2章2,3節)
本日は、京都祇園祭、山鉾引き廻しの日です
遠つ祖霊の地より
管理者 日月土
前回に引き続き、DC BUREAU の記事「米国政府は法の目を盗み、日本がトン単位でプルトニウムを蓄積するのを許していた(記:ジョセフ・トレント 2012年4月9日、日本語訳:日月土)」の日本語訳出を掲載します。今回は、日本の核兵器開発計画の歴史的経緯として、太平洋戦争中に、日本でどのような研究開発が行われていたか、また、敗戦後どのような経緯で核開発を再開したか、等について説明が記されています。
今回の内容については、明らかに事実誤認と思われるものも含まれているので、それについては、引用文に続いて解説を加えたいと思います。
-----引用(ここから)-----
http://www.dcbureau.org/201204097128/national-security-news-service/united-states-circumvented-laws-to-help-japan-accumulate-tons-of-plutonium.html#more-7128
F号計画:日本で最初の核兵器開発計画
F-Go: The First Japanese Nuclear Weapons Program
1940年代初頭、世界が人類史上最も血生臭い紛争に懸かりっきりだった頃、ドイツ、イギリス、アメリカ、そして日本の科学者たちは、信じられない程の破壊力を持つ兵器を原子核の中に見出そうとしていた。理論上の話をまさに現実化せんとするこの開発レースは、工業生産力戦争の様相を以ってして、何百万人もの命を奪った先の大戦に、秘められた意味合いを持たすことになった。理論物理学の世界では、日本はライバルであるヨーロッパやアメリカと肩を並べていた。日本に欠けていたのは、原材料とそこから原爆を作り出す工業的な余力そのものであった。しかし、資源や設備がなければ日本がどんなに戦争に突き進んでも無意味なものであった。
In the early 1940s, with the world locked in the bloodiest conflict in human history, scientists in Germany, Great Britain, the United States and Japan struggled to unlock from the atom a weapon of almost inconceivable power. This race to turn theory into devastating reality formed a secret subtext to the war that destroyed millions of lives using industrial warfare. In the area of theoretical physics, Japan was as advanced as her European and American rivals. She lacked only the raw materials and the sheer industrial excess to turn those materials into an atomic bomb. But Japan’s war machine was nothing if not resourceful.
写真1:仁科芳雄博士
1940年(昭和15年)より、日本の科学者は精力的に核連鎖反応の研究に取り組んできた。仁科芳雄博士などは、原子核物理分野における戦前の業績がノーベル賞候補にノミネートされたほどだ。博士と若い科学者たちのチームは理研(理化学研究所)において不眠不休で研究を進めた。2年程の基礎研究の後、F号計画と呼ばれた原爆製造計画は1942年に京都で始まった。1943年までに、日本のマンハッタン計画は、爆弾製造に必要なウラン(U235)を分離生成させるサイクロトロンの製作だけに留まらず、核の知られざる力を解放するための十分な知識を有した、原子核科学者のチームを作り上げてきた。アメリカがワシントン砂漠に建設したウラン濃縮プラントは、グランドクリーダムの全発電量という膨大な電力を必要とした。日本の科学者たちは、原爆製造のため国家に十分なウラン鉱石を回すよう求めたが、その結果はあまり芳しいものでなかった。
Since 1940, the Japanese had been aggressively researching the science of the nuclear chain reaction. Dr. Yoshio Nishina had been nominated for the Nobel Prize for his pre-war work in nuclear physics. Now he and a team of young scientists worked tirelessly at the Riken, the Institute of Physical and Chemical Research, to beat the Americans to the bomb. After two years of preliminary research, the atom bomb program called F-Go began in Kyoto in 1942. By 1943, Japan’s Manhattan Project had not only produced a cyclotron that could separate bomb-grade uranium, but also had developed a team of nuclear scientists with the knowledge to unleash the atom’s unknown power. As America built a uranium enrichment plant in the Washington desert so enormous it drew every watt of electricity from the Grand Coulee Dam, the Japanese scoured their empire for enough raw uranium to make their own bomb, with only limited success.
日本はナチスドイツにも援助を求めた。当時、ナチス政権も原爆開発を推進していた。しかし、1945年(昭和20年)の初頭には、連合軍はライン川に迫り、ロシア軍はプロシアを制圧していた。最後の望みとして、ヒトラーはUボートに1200ポンドのウランを積んで日本に向けて出航させた。この潜水艦は日本に着くことはなかった。1945年の5月、アメリカの艦船がこれを拿捕したのだ。乗船していた二人の日本人担当官は自殺し、ウランの積荷はオークリッジに運ばれた。ウラン無くして、日本はたった1,2個の小型原爆すら製造し得なかったであろう。
Japan looked to Nazi Germany for help. The Nazis, too, had been pursuing the nuclear bomb. But, by early 1945, the Allies were on the Rhine and the Russians had taken Prussia. In a last-ditch effort, Hitler dispatched a U-boat to Japan loaded with 1,200 pounds of uranium. The submarine never arrived. American warships captured it in May 1945. Two Japanese officers on board the submarine committed suicide and the shipment of uranium was diverted to Oak Ridge, Tennessee, for use in the American Manhattan Project. Without the uranium, Japan could not produce more than one or two small atomic bombs.
両国の原爆製造計画がほぼ完成に近づいた1944年(昭和19年)、ダグラス・マッカーサー将軍の蛙飛び作戦は日本本土に迫っていた。B29の編隊は東京や他の主要都市に焼夷弾の雨を降り注いだ。仁科博士はそれまでの研究成果を現在北朝鮮にある興南(訳注:Hungnam-現咸興市内の区域)という小さな寒村に移す必要に迫られた。移転には3ヶ月を要した。
As the bomb programs in both countries neared completion in 1944, General Douglas MacArthur’s island-hopping campaign drew closer to Japan’s home islands. Fleets of B-29 bombers rained fire on Tokyo and other major cities. Nishina had to move his effort to the tiny hamlet of Hungman in what is now North Korea. The move cost the Japanese program three months.
1945年(昭和20年)8月6日、エノラ・ゲイは一発の原子爆弾を広島に投下した。爆発の直接の被害で7万人以上が死亡し、数日、数週間が経過して後、更に数千人の死亡者がそれに続いた。
On August 6, 1945, the Enola Gay dropped a single atomic bomb over Hiroshima. The blast killed more than 70,000 people outright, and in the days and weeks to come thousands more succumbed.
仁科博士が爆発の一報を聞いたとき、彼は直ぐに、アメリカの科学者たちに先を越されたことを悟った。しかし、彼は自身の携わった原爆が首尾よく行くことに、密かに確信を持っていた。仁科博士と彼の研究チームは不眠不休の働きで、動作テストができる所までこぎ着けたのだ。ロバート・ウィルコックスのような歴史家やアトランタ・ジャーナル・コンスティテューションのライター、デビッド・シェルは、日本が原爆製造に成功したと信じている。ウィルコックスは1945年(昭和20年)8月12日、長崎の原爆投下から3日後、そして日本敗戦の3日前に、部分的にせよ日本は興南での実験に成功したと書いている。しかし、その時までの奮闘は単に象徴的なものでしかなかった。如何せん、日本にはそれ以上兵器を生産することも、兵器を確実にアメリカまで運ぶ手段も持ち合わせていなかったのだから。
When word of the blast reached Nishina, he knew immediately that the Americans had beaten him to the prize. But he also had implicit confirmation that his own atomic bomb could work. Nishina and his team worked tirelessly to ready their own test. Historians such as Robert Wilcox and Atlanta Journal Constitution writer David Snell believe that they succeeded. Wilcox writes that on August 12, 1945 - three days after the Nagasaki bombing and three days before Japan signed the articles of surrender - Japan tested a partially successful bomb in Hungnam. By then the effort was merely symbolic. Japan lacked the means to produce more weapons or to deliver them accurately to the United States.
日本の復興が進むにつれて、広島・長崎における原爆攻撃は、それが、アメリカが日本に対して行った非人道的行為であると同様に、大日本帝国の野望に潜む愚かさの一面を象徴する行為として認識されるようになった。そして、日本の人々は核兵器に対して嫌悪感を抱くようになった。日本のリーダーたちも同じ認識を共有していたのだが、核兵器開発競争の末席に居座り続け、それに加えてなお、核爆弾の戦略的価値に傾倒を深めてきたのである。
As Japan rebuilt after the war, the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki came to represent the folly of Japan’s imperial aspirations as well as American inhumanity toward the Japanese. The Japanese people held nuclear weapons in abhorrence. Japan’s leaders shared that view, but, having been on the receiving end of nuclear warfare, also developed a special appreciation for the bomb’s strategic value.
終戦後、数万人ものアメリカ軍人が日本を占領した。原爆による攻撃後、アメリカは、この破壊力を手にしたいとの願望とそれを手にするだけの能力が世界に蔓延してしまうのを恐れた。ワシントンは、日本がそれまでの想定以上に、独自に核爆弾を保有する能力が高いことを知った。日本の核兵器開発能力を壊滅させることに高い優先順位が与えられた。国際的な核不拡散条約を協議することに加え、アメリカ占領軍は、日本の核開発計画が再開されないよう、数機のサイクロトロンと、核爆弾開発計画の痕跡を残すものを破壊した。占領軍は、F号計画の物理的な残存物を消滅させることはできたかもしれないが、仁科博士や彼の研究チームが戦争中に築き上げた膨大な知識体系までは破壊し得なかったであろう。
As the war ended, thousands of American troops occupied Japan. After the nuclear attacks on Japan, the United States feared that the desire and ability to create this power would spread throughout the world. Washington learned that Japan had been much closer to its own nuclear bomb than previously thought. Destroying Japan’s nuclear-weapons capability became a high priority. In addition to negotiating international non-proliferation agreements, U.S. occupation troops destroyed several cyclotrons and other vestiges of Japan’s atomic bomb project to prevent Japan from resuming its nuclear program. Though the troops could demolish the physical remnants of the F-Go project, they could not destroy the enormous body of knowledge Nishina and his team had accumulated during the war.
(つづく)
-----引用(ここまで)-----
■二つの原爆製造計画
戦時中の日本の核兵器開発については、保阪正康さんの記された『日本の原爆−その開発と挫折の道程』(2012年4月 新潮社)に詳しく記述されています。この本によると、記録に残る戦時中の核兵器製造計画には次の二つがあったと述べられています。
(1)ニ号計画(戦時研究37−1)
管轄:陸軍航空本部
研究主体:理化学研究所 仁科芳雄研究室
主な研究員:湯川秀樹、朝永振一郎、玉木英彦、武谷三男、他
(2)F号計画(戦時研究37-2)
管轄:海軍艦攻本部 第二火薬廠技術研究所
研究主体:京都大学 荒勝文策研究室
主な研究員:湯川秀樹、坂田昌一、小林稔、他
仁科博士が担当していたのは、(1)のニ号計画の方であって、NSNSが伝えるように(2)のF号計画ではありません。保坂氏は昭和50年代に両計画の研究担当者に直接面談して話を聞いており、当時の研究員はお互いの存在は知っていても、積極的な交流はなく、むしろ陸海軍の対立構造よろしく、ライバル意識を抱いていたとも言います。また、荒勝博士は仁科博士とはまったく性格が異なる研究者であったとの証言もあり、仁科博士がF号計画を統括していたとする記述は、正しくはニ号計画であることの誤りであろうと考えられます。それは、本記事の中で研究室の所在が「理研(Riken)」と記されていることからも推察できます。
写真2:「日本の原爆」
開発当事者へのインタビュー記録がたいへん貴重な良書である
■「今次の戦争中に原爆完成は不可能」−研究者の思い
『日本の原爆』が示す内容で、NSNSの記事と決定的に異なるのは、原爆製造に関わった研究者の誰しもが、「今次の戦争中に原爆完成は不可能」という思いを抱いていたという点です。ですから、この記事が示すように、「日本が原爆製造に成功した」ような事実は一切無かったであろうとほぼ断言しています。また、両研究室が本格的に原爆製造研究に取り組んだのは、敗戦色が漂い始めた1944年(昭和19年)のことであるとしており、同記事が伝えるように「1942年に京都で(研究が)始まった」というのは、研究の開始時期に大きく齟齬が生じます。もっとも、軍内で調査検討会程度のものはあったかもしれませんが。これらの点について、米国人の記者や歴史学者が旧敵国の戦力を高めに評価することは、ある程度仕方がないことのように思われます。
一方、日本がなぜ原爆を製造し得なかったか、その理由については意見を同じくしています。それは、本記事で「資源や設備がなければ日本がどんなに戦争に突き進んでも無意味なものであった」とあるように、『日本の原爆』でも、両研究室は原爆製造に必要なだけのウラン鉱石すら入手するのが困難であったと伝えています。
■8月12日の暗号
これは余談になりますが、NSNSの記事が1945年(昭和20年)の8月12日を「日本の原爆完成の日」としているのは興味を惹きます。8月12日とは日航機事件が発生した日とちょうど同じ日です。911や311など、大事件が起きる日付の数字に意味を持たせるのは、闇組織が好んで使う「仄めかし」の常套手段と考えられるからです。
この辺の解析については「日本の陰謀」氏が卓越していますが、812の月日を入れ替えて128とすると、「日米会戦の日」ともなります。そして、かなり強引な解釈となりますが、その入れ替えの意味合いも含めて、8月12日とは、「日本が核で米国に報復する日」と取れなくもありません。
それならば、何故日本の航空会社を狙うのか論理的な矛盾も感じますが、大陸に逃れた旧陸軍系組織にとって、米国の傀儡となった日本など、ましてや米国製航空機を運用する航空会社など日本とは見なさないということだったのかもしれません。
これを証明することは不可能ですし、今後も証明されることはないかもしれませんが、少し気になったので、ここに書き残しておきます。
■記録なき戦史?旧陸軍と北朝鮮
『日本の原爆』で一切触れられず、本記事にはあるもの。それは、「仁科博士はそれまでの研究成果を現在北朝鮮にある興南という小さな寒村に移す必要に迫られた」とあるように、研究場所が国外に移されたという部分です。『日本の原爆』では、本土空襲で研究施設のほとんどが使用不能となり、研究の継続は困難となって、二号計画は中止に追い込まれたとしています。NSNSが何を参照して調査したのか不明ですが、どうしてここで北朝鮮が出てくるのでしょうか?
実は、本ブログの「蘇る亡霊(15)」の中でも、nqlab氏の引用として
「仁科博士の日本陸軍の研究は大陸でも行われた。その拠点は、現在北朝鮮の金策市(キムチャクし)。当時の名称は城津。日本海に面した製鉄・重工業の中心地だ。」
という部分をご紹介しました。本記事の場合は、同じ北朝鮮でも「興南」という場所に研究拠点を移したとしています。こちらも日本海に面した地域です。
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図1:興南の位置(咸興市内の一地区)
私は、どちらが正しいのかという議論よりも、違う情報ソースが北朝鮮の沿岸都市に原爆開発の拠点が移ったとしている点に注目すべきだと考えます。保阪氏は資料と証言を綿密に分析するタイプの歴史研究家で、その研究スタイルに異論を挟むつもりはありません。しかし、資料第一主義の歴史研究は、資料が無ければ史実は存在しないという、おかしな結果を生むことが考えられます。原爆研究という当時の超極秘軍事研究について、全てが管理され記録が残されていると考える方がむしろ不自然ではないでしょうか。
国内の空襲激化で、国内の研究施設は壊滅。記録上のニ号研究、F号研究はここで途絶えます。しかし、記録に残されていない他の研究機関がここで新たに誕生したか、あるいは既に存在しており、北朝鮮に移転し、他の研究機関の成果を集約した可能性も、想像の上では許されるかと思います。秘密研究機関であればこそ、二号やF号の研究員もその実態は知らされず、後年の回想で一切その話が出ないことも考えられます。知っているとすれば、各研究機関を統括する立場にいる仁科博士、荒勝博士、湯川博士などでしょうが、秘密を知る彼らが、果たして真実を後世に伝え残すでしょうか?
■北朝鮮のテポドンはオール三菱製?
nqlab氏は、北朝鮮に残された日本の原爆研究が置き土産となり、現在の核兵器開発、テポドンの開発に繋がっているとしています。これに関連して、以前、北朝鮮の軍備について、国際軍事評論家のB氏に尋ねたところ、次のようなお話を伺いました。
「北朝鮮は既に核弾頭を6発持っています。慣性誘導装置などテポドンに搭載されている主要技術は、全て中国を経由して入った三菱重工のものです。勝手に密輸されたなどというのは建前で、同社の籍を離れた元社員が実際に技術指導のために訪朝していると聞いてます。自衛隊の幕僚会議でもそれが問題となり『三菱、けしからん!』の声が上がったこともあります。」
何のことはない、国力が極めて低いと言われている北朝鮮が核兵器を持ち、長距離弾道弾を飛ばせるのは、先の大戦から現在まで、長きに渡り日本(の闇組織)の支援を受けているからと考えれば、全て合点がいきます。密輸で高性能部品を掻き集めただけでは、弾道ミサイルの制御などという高度なシステム処理ができるはずがありません。それをオーガナイズするプロのノウハウが必ず必要です。だとすれば、今年の4月のように、北朝鮮から発射される日本製ミサイルにおののき、米国製の迎撃ミサイルでそれを打ち落とそうなどという騒ぎは、面白くない吉本喜劇よりも笑えない話です。
同時に北朝鮮・中国を通じて、核技術やミサイル制御に必要な日本の精密加工技術が、ソ連や東側諸国に流れ続けていた可能性も考えなければなりません。以前お伝えしたように、中国北京政府の諜報機関は旧帝国陸軍(関東軍)により構築され、戦後も伊藤忠元会長、旧帝国陸軍参謀の瀬島龍三氏の人脈をなど通して深く繋がっていた可能性が考えられるのです。中国が核ミサイル配備を早期に達成できた理由とは、日本の闇組織を通した技術支援の賜物と考えられなくもありません。一方、米国監視の下、平和憲法を掲げる日本は、核兵器具現化の夢をアジア共産圏諸国に仮託したのだとも考えられるのです。
これに関連して、日航機事件発生の前年(1984年)にかけて、東芝がソ連に高度な潜水艦建造技術を売り渡していたという、東芝ココム違反事件(Wikipedia)や、日立製作所や三菱電機、富士通がIBMのオペレーティング・システム技術を不正に入手したとされるIBM産業スパイ事件(Wikipedia)に見られるように、日航機事件発生の前後、米国の軍事・司法筋が日本企業の動きに対して非常に敏感になっていたという事実は見逃せません。
話は脱線しましたが、史実に残らない日本の原爆製造技術の北朝鮮への移転は、今回のテポドン騒ぎからも推察できるように、決してありえない話ではないと思えるのです。
写真3:北朝鮮のテポドン(三菱製?)
以下引用を続けます。
-----引用(ここから)-----
日本の核開発計画の始まり
The Beginning the Japan’s Nuclear Program
戦後数年が経過し、F号計画に関わった人員は、日本の原子力エネルギー政策のリーダーとなっていった。彼らにとっての最優先事項とは、国内で核の研究を継続するために必要十分なウランを確保することであった。
In the years to come the men behind F-Go would become the leaders of Japan’s nuclear power program. Their first priority was to stockpile enough uranium to ensure that nuclear research could continue in Japan.
戦争とそれを終結させた原爆の威力は、日本人にいつまでも消えない強烈な印象を残した。彼らにとって、広島と長崎の破壊は忌まわしいものであった。しかし、日本の指導者層は、核こそエネルギーの海外依存に取って代る道であると認識した。エネルギーの海外依存は、工業化時代に参入した当初から日本にとっての足枷だったのである。
The war and the atomic blasts that ended it left a strong and enduring impression on the Japanese people. They abhorred the destruction of Hiroshima and Nagasaki. But the Japanese leadership recognized that in nuclear power there was an alternative to foreign energy dependence, a dependence that had hindered Japan since her entry into the industrial era.
日本の降伏によって、アメリカは太平洋地域において強大な力を持つようになった。しかし、1949年(昭和24年)に中国で共産党政権が誕生し、ソビエト連邦が核実験に成功すると、その地位も脅かされるようになった。共産主義政権が太平洋地域でアメリカを脅かし続けるようになると、日本に対する見方も征服された敵対者から価値ある同調者へと突如として変貌した。
With the surrender of Japan, the United States became the preeminent power in the Pacific. But that position was challenged in 1949 with the communist victory in China and successful nuclear tests by the Soviet Union. The communists were challenging America in the Pacific, and Japan suddenly shifted from vanquished adversary to valuable ally.
1952年(昭和27年)に北朝鮮軍が南に押し寄せたとき、アメリカは全くそれに対応できなかった。貧弱な兵装と未熟なアメリカ海兵隊は、日本海を背に釜山で取り囲まれてしまった。陸軍司令官だったダグラス・マッカーサー将軍は、この時、朝鮮戦争において初めて、トゥルーマン大統領に核兵器の使用を許可するよう働きかけた。
The United States was completely unprepared when North Korean troops swarmed south in 1952. Soon poorly armed, under-trained American Marines were surrounded in Pusan with their backs to the sea. For the first of many times during the Korean War, the American military commander, Gen. Douglass MacArthur, lobbied President Truman to use nuclear weapons.
核兵器は日本の沖縄に保管されていた。アメリカ軍が釜山で全滅の危機に瀕していたとき、アメリカのB-29は中国と朝鮮の目標を(原爆で)爆撃するため、エンジン始動のまま待機していた。朝鮮戦争後期、中国軍が朝鮮に侵入した時には、日本を飛び立った核爆弾を搭載した爆撃部隊が、中国と北朝鮮の領空にまさに突入せんとするところだった。1機のジェット戦闘爆撃機がこの時撃墜された。
Those weapons were stored on the Japanese island of Okinawa. While American troops faced annihilation in Pusan, American B-29s waited with engines running to bomb targets in China and Korea. Later in the war, when Chinese troops entered Korea, nuclear-laden bombers flying from Japan would actually penetrate Chinese and North Korean airspace. One jet fighter bomber was shot down.
朝鮮戦争は日本にとって指標ともなるべき重要な出来事である。3千年の長き歴史において最も屈辱的な敗戦を経験した、そのたった7年後に、日本は、彼らを打ち負かした同じ敵軍のために、軍事拠点として自国を差し出したのだ。その時、日本独自の軍隊は事実上存在しなかった。アメリカ兵が東京の安売春宿を頻繁に訪れるがごとく、屈辱的にも、日本の防衛は全てアメリカの手に握られていたのが実状であった。トゥルーマン大統領が中国相手に核による瀬戸際外交を行っている最中、日本の防衛が、まさに第二次大戦で自国を敗戦に追いやった、その核爆弾に依存していることが明から様となった。
The Korean War is an important milestone for Japan. Only seven years after the most humiliating defeat in its three-thousand-year history, Japan served as the staging ground for the same military that had defeated her. Japan’s own military at the time was practically nonexistent. As humiliating as the American servicemen who frequented Tokyo’s nickel brothels was the realization that Japan’s defense was wholly in American hands. As Truman played the game of nuclear brinkmanship with the Chinese, it became apparent that Japan’s defense now relied on the same nuclear bombs that had sealed her World War II defeat.
1950年代初期、アメリカ政府は東京の日本政府に核ビジネスに参入するよう積極的に働きかけた。核エネルギーの凄まじい破壊力を目の当たりしていることもあり、アイゼンハワー大統領は核を厳重な監視の下に置くことに決めた。彼はまた、世界が核分裂技術によるアメリカの一国支配を決して歓迎しないだろうとも理解していた。そこで、彼はそれに替わる方針を打ち出した。「核の平和利用」である。アイゼンハワーは日本やインドのようにエネルギー資源が少ない国々に、技術面、経済面、そしてモラル面における支援と共に、核反応炉を提供したのである。経済と社会インフラを再建する自国資源に乏しい日本は、慢性的なエネルギー欠乏状態である自国経済への処方箋として、すぐさま核エネルギーに飛びついた。
In the early 1950s, the United States aggressively urged Tokyo to get involved in the nuclear power business. Having witnessed the destructive power of nuclear energy, President Eisenhower was determined to keep it under strict control. He also realized that the world would never accept a complete U.S. monopoly on atom-splitting technology, so he developed an alternative - Atoms for Peace. Eisenhower gave resource-starved countries like Japan and India nuclear power reactors as a form of technical, economic and moral support. Lacking the indigenous resources to rebuild its economy and infrastructure, Japan quickly turned to nuclear power as the answer for its chronically energy-starved economy.
図2:IAEAロゴ
(訳者注:「Atoms For Peace(核の平和利用)」ですかぁ。なるほど)
アメリカの「核の平和利用」プログラムに乗じ、日本は核エネルギー産業における全領域に渡って発展を促すことになる。日本は大勢の科学者を核エネルギー開発のトレーニングのため、アメリカに派遣した。戦後、国際社会での活躍の場を再び獲得することも、かつての発言権や政治力を呼び戻すことにも絶望感を覚えた日本政府は、核反応炉や実験施設の建設に、なけなしの予算を喜んで注ぎ込んだのである。
With the help of the American Atoms for Peace program, Japan began to develop a full-scale nuclear power industry. The Japanese sent scores of scientists to America for training in nuclear energy development. Desperate to regain a foothold in the international arena and reclaim its sovereignty and power after the war, the Japanese government willingly spent scarce funding on research labs and nuclear reactors.
日本の戦時における経験は、核産業をゼロから作り上げるための下準備とはなった。しかし、核の平和利用という掛け声の下で、すでに完成している核反応炉を西側から輸入する方がより安価であった。
Japan’s wartime experience had prepared her to build a nuclear industry from scratch, but with Atoms for Peace, it was cheaper to import complete reactors from the West.
「核の平和利用」はアメリカに限らず、イギリスやカナダの核を輸出に向けさせる後押しとなった。まず初めに、イギリスがマノックス(Magnox)のプラントを日本に売りつけた。GEやウェスティングハウスもすぐさま生産余力を確保して、反応炉の設計図や関連部品を法外な値段で日本に売りつけた。日本の核産業界は、短期間の内に、核の平和利用を志す国のモデルと呼ばれるまでになった。若く優秀な日本人科学者の一世代はこの頃に出現し、全員が核エネルギー分野の開拓に全精力を注いだのである。
Atoms for Peace supported British and Canadian nuclear exports as well as American. Britain went first, selling its Magnox plant to Japan. General Electric and Westinghouse rapidly secured the rest of the industry, selling reactor designs and components to Japan at exorbitant prices. The Japanese industry quickly became a model for other Atoms for Peace countries. A generation of brilliant young Japanese scientists came of age during this period, all committed to the full exploitation of nuclear energy.
一度核産業が活性化されると、日本はアメリカから独立した独自の核研究を再開するようになった。アメリカの核産業に刺激され、1956年(昭和31年)、日本の官僚は包括的な核燃料サイクルの構築を目指す青写真を示した。その時は、核燃料サイクルの概念は理論的なものにすぎず、それは、1939年(昭和14年)にアインシュタインがあの悪名高き書簡をルーズベルト大統領へ送った際に綴られた、原子爆弾の概念以上に現実離れしたものであった。理論上では、従来の核反応炉で燃焼された使用済み燃料からプルトニウムが抽出され、そのプルトニウムはまた、増殖炉の燃料として新たに使用することができるとある。その通りの働きを現実化できる者などまだ誰もいなかった。しかし、この事こそが科学技術時代の夜明けを象徴していた。日本、そしてアメリカやヨーロッパの科学者までもが、科学進歩の可能性に夢中になっていたのだ。日本の計画立案者や官僚たちもまた、情熱を注いだのである。増殖炉計画は、日本がアメリカから輸入しているウラン原料を最も効率よく使おうとするものだった。それは、日本をアメリカへのエネルギー依存から解放し、同時に膨大な量のプルトニウム備蓄を可能にするものであった。そのプルトニウムこそ、最も強力で且つ入手が困難な核爆弾原料なのである。
Once the industry was vitalized, Japan resumed its own nuclear research independent from the United States. Encouraged by the Americans, in 1956 Japan’s bureaucrats mapped out a plan to exploit the entire nuclear fuel cycle. At that time the concept was only theoretical, no more a reality than the atomic bomb was when Einstein penned his infamous letter to Roosevelt in 1939. According to the theory, plutonium could be separated from the spent fuel burned in conventional reactors and used to fuel new “breeder reactors.” No one had yet been able to make it work, but this was the dawn of the age of technology. Scientists in Japan, America and Europe were intoxicated with the possibilities of scientific advancements. Japan’s central planners and bureaucrats were equally enthusiastic. The breeder reactor plan would make the most efficient use of the raw uranium Japan imported from the United States. It would wean Japan from her dependence on American energy and also create an enormous stockpile of plutonium - the most powerful and difficult to obtain bomb material.
(つづく)
-----引用(ここまで)-----
以上の引用は、敗戦直後の日本の核政策について書かれています。その前に朝鮮戦争についての記述がありますが、日本の経済復興が、朝鮮戦争やベトナム戦争など、米国が仕掛けた戦争と軍需によって牽引されてきたという現実も、私たち日本人は深く認識する必要があるでしょう。「日本の憂うべき現状」では三井化学の戦争加担行為の可能性を指摘しましたが、この朝鮮戦争でも、ダイキン工業が製作した砲筒が大活躍したり、日本の掃海艇が機雷を除去したりなど、戦争を放棄したはずの日本が、直接間接に米国の戦争に加担していたという事実はいくらでも見出すことができます。
結局、戦争の記憶がまだ生々しい敗戦直後ですら、第2次大戦の教訓など何一つ生かされていなかったのではないかと疑わずにはいられません。そんな精神構造のまま、いくら「平和利用」だといって核を受け入れても、その辿り着く先はどこなのか、火を見るより明らかだとも言えます。
さて、私のこの記事は日航機事件についてのものなので、ここで、日航機事件当時の首相で事件の主要登場人物の一人、中曽根康弘氏と戦後の核開発との繋がりについて、上述の『日本の原爆』から、関連箇所を抜粋してみます。
「中曽根は昭和26(1951)年ごろから原子力に関心を寄せた。その後の原子力諸案判定にも中心メンバーとなった。昭和30年には衆参両院合同の原子力合同委員会が発足したが、委員長は中曽根が務めている。」
「日本の原子核研究はアメリカの思惑や政策に振り回されていることが分かり、さらに原子物理学者よりも政治家が前面に出て動いたことが分かる。昭和31年5月に初代の科学技術庁長官のポストに就いた正力松太郎や、その後任の中曽根らによって、原子核平和利用の方向付けがされていったことが分かる。」
写真4:正力松太郎氏(左)と中曽根康弘元首相(右)
以上より、中曽根氏の並々ならない「核」への関心が伺えます。戦後の数ある首相経験者の中でも、科学技術庁長官という、王道から外れたポストを経て首相になった人物は珍しいとも言えます。中曽根氏がここまで核に拘った理由は何なのか、正力松太郎氏や瀬島龍三氏との太い人脈も含めてその点に注意すると、NSNSの調査レポートから新たな史実が見出せそうです。
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文中、「記録なき戦史」という言葉を使わせていただきましたが、その意味では、日航機事件、あるいは日航機事変もそれに該当するでしょう。もしも、誰かがこの不可思議な紛争を記述し記録に残さなければ、520人の犠牲者は不幸な事故死者として永遠に歴史の中に刻まれてしまうでしょう。
日航機事件以外にも隠された歴史、というよりも歴史から消された史実は山のようにあるかと思います。その中でも敢えて日航機事件を取り扱うのは、この事件が昭和という時代の実相を斯くも象徴するからに他なりません。昭和という時代に育てられた私は、自分が生きてきた時代が何であったかを知りたいし、事件の犠牲者の皆さんに、自らの死の意味が何であったのかを伝えてあげたいのです。そうでなければ、あまりにも残酷過ぎます。
今回のNSNSの調査レポートは、全く誤りがないとは言えないまでも、多くの真実と真実への道のりを示している点では画期的です。しかし、真実とは本当に残酷です。ここに書かれていることが事実なら、ビル・トッテンさんではありませんが、戦後の日本には民主主義なるものは一度も存在しておらず、「核の平和利用」だけでなく、非核三原則も平和憲法も、「平和という雰囲気」を醸し出すだけの舞台装置でしかなかったことになります。
日航機事件はその舞台装置が綻びを見せた最初の出来事であり、取り繕いもまだ可能だったかもしれません。しかし、今回の福島原発事故は、旧式の舞台装置がもはや機能しないことをはっきりと示したように思います。しかし、それでもなお真実を直視せず、ポンコツ舞台装置の作り出す仮想世界に居ることを良しとするのが大半のように思われます。私には何も強制できませんが、それが本当に人生を生きていると言えるのかどうか、これを機に考えてくださるだけでも、ありがたいと思えるのです。
ET ERIT IN NOVISSIMIS DIEBUS PRAEPARATUS MONS DOMUS DOMINI IN VERTICE MONTIUM ET ELEVABITUR SUPER COLLES ET FLUENT AD EUM OMNES GENTES
ET IBUNT POPULI MULTI ET DICENT VENITE ET ASCENDAMUS AD MONTEM DOMINI ET AD DOMUM DEI IACOB ET DOCEBIT NOS VIAS SUAS ET AMBULABIMUS IN SEMITIS EIUS QUIA DE SION EXIBIT LEX ET VERBUM DOMINI DE HIERUSALEM
終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。
(イザヤ書 第2章2,3節)
本日は、京都祇園祭、山鉾引き廻しの日です
遠つ祖霊の地より
管理者 日月土