本日は令和5年8月12日。毎年この日が来るたびに複雑な思いが心をよぎります。
このブログを始めたのが14年前の7月で、その翌月から123便の真相について記事を書き始めたのですが、まさかこんなに長くブログが続くとは、私自身も全く予想していませんでした。
とは言っても、それでも私がこの問題に取り掛かったのはたった14年でしかありません。123便の犠牲者、またそのご遺族にとってはあれから38年もの歳月が過ぎ去って行ったのですから、その心中を察することすらもはや憚られるのです。
今日この日、私は多くの犠牲者に対して手を合わせることしかできません。読者の皆様も、もしもお時間が許せば、夕方の6時56分頃、空に向かって手を合わせて頂けませんでしょうか。犠牲者のご冥福と共に、事の真相が詳らかになることを祈って。
見返り峠からスゲノ沢を望む(今月撮影)
* * *
長年本ブログにお付き合い頂いた方ならもうお気付きのように、私は現在、1985年当時から現在に至るメディア表現を中心に事件の解析を進めています。
その中で、文化・芸能・報道が一体となって社会を誘導する様を確認し、それが123便事件よりも前から長期間行われてきた実態が見えてきました。
残念ながら、日本をはじめこの世界には、真の「報道の自由」・「表現の自由」などないことが露わになってきたのです。その端的な例が、3年前に始まったパンデミック騒ぎであると言って良いかもしれません。
現在は、ネットの普及などで、ある程度検証のし易い環境が整っていますが、38年前のメディア環境がどうであったか、当時を知る方は思い出してみてください。
テレビやラジオ局は限られ、詳しい内容は3大新聞や地方紙、雑誌を通してというのが一般的だったはずです。ネットなどはまだありませんでしたから、多くの人々が同じメディアから同じ情報を取り入れていた時代でした。
ですから、その時は国民的アイドルなど「国民的〇〇」という言葉がすんなりと受け入れられた時代でもあったのです。別の言い方をすれば、一人のアイドルやスポーツ選手に国民の大多数が熱狂できた時代だったのです。それはそうでしょう、皆が同じ情報ソースを見聞きし、それに対して何の疑いもなく論評し合うのが当たり前の世の中だったのですから。
そして、当時の国民は、その罠にまんまと引っ掛かった。スポーツや芸能という一見政治や思想と関係ない表現の中に埋め込まれた心理的トリガーを、疑いなき無垢の心で無条件に吸収し続けていたのです。
本ブログの「芸能界の闇」シリーズは、まさにその点を追ったものであり、その分析から、123便事件が大衆心理操作を含め長期間の計画を経て為されたものである痕跡を幾つか見出すことができました。
これまで、その計画のことを「123便撃墜計画」あるいは「昭和天皇暗殺計画」と表していましたが、この計画の背後を更に追求していくと、これらが、大きな国家的計画の一部でしかないことも段々と分かってきたのです。
現在のところ、その規模と内容は、もはや「計画」というより「儀式・祭祀」と呼ぶに相応しいもので、その「儀式」の本質は、123便の乗員乗客を狙ったと言うより、日本国民全員の命を狙ったと言うべきものであると私は判断しています。
しかし、私たちは38年後の現在でも生きています。生きているが故に、そのような「儀式」があったとは誰も思わないのですが、実は1985年の儀式が不調に終わった理由も、これまでの調査から大分見えてきているのです。
私の実力では、これらを系統だって説明するのはまだまだ難しいのですが、この「大儀式」が終了していない現実は
・1995年地下鉄サリン事件
・2011年東日本大震災、福島第一原発事故
・2020年コロナパンデミック
など、この38年の間に発生した大規模災害・事故・事件から読み解くことができます。
こういうことを書くと、またすぐに「陰謀論」と言われてしまいそうですが、そう言う人はメディアが作り上げた政府や社会のイメージを一切疑わない、素直で善良な人々なのでしょう。
残念ながら、123便事件はその政府と社会が一体となり、緻密な計画に従って進められたものなのです。泥棒が「泥棒をした」と言うはずはなく、泥棒が生き残れるのは、過度に善良な人々がその甘言に酔いしれ盲目的に泥棒を擁護しているからだと、そろそろ気付いて欲しいのです。何よりも、その命が奪われる前に。
話があらぬ方向に進みそうなのでここまでにしておきますが、私が一番にお伝えしたいのは
1985年の計画はまだ生きている
という事実であり、国民の誰もが123便の犠牲者と同じ運命を辿る可能性があるということなのです。
現在公開中の映画「君たちはどう生きるか」の中で、崩れ行く現世に戻ろうとする主人公を引き止めるシーンがあります。この「崩れ行く現世」こそが、現在進行中の「計画」を示す暗示であると、私は捉えたのです。
参考:
・黒霧123便関連記事ガイド
・(新)ブログ全記事リスト
・123便搭乗者検索
QUI CUM SAPIENTIBUS GRADITUR SAPIENS ERIT AMICUS STULTORUM EFFICIETUR SIMILIS
知恵ある者と共に歩けば知恵を得/愚か者と交われば災いに遭う。
(箴言 第13章20節)
キリストの御国にて記す
管理人 日月土
このブログを始めたのが14年前の7月で、その翌月から123便の真相について記事を書き始めたのですが、まさかこんなに長くブログが続くとは、私自身も全く予想していませんでした。
とは言っても、それでも私がこの問題に取り掛かったのはたった14年でしかありません。123便の犠牲者、またそのご遺族にとってはあれから38年もの歳月が過ぎ去って行ったのですから、その心中を察することすらもはや憚られるのです。
今日この日、私は多くの犠牲者に対して手を合わせることしかできません。読者の皆様も、もしもお時間が許せば、夕方の6時56分頃、空に向かって手を合わせて頂けませんでしょうか。犠牲者のご冥福と共に、事の真相が詳らかになることを祈って。
見返り峠からスゲノ沢を望む(今月撮影)
* * *
長年本ブログにお付き合い頂いた方ならもうお気付きのように、私は現在、1985年当時から現在に至るメディア表現を中心に事件の解析を進めています。
その中で、文化・芸能・報道が一体となって社会を誘導する様を確認し、それが123便事件よりも前から長期間行われてきた実態が見えてきました。
残念ながら、日本をはじめこの世界には、真の「報道の自由」・「表現の自由」などないことが露わになってきたのです。その端的な例が、3年前に始まったパンデミック騒ぎであると言って良いかもしれません。
現在は、ネットの普及などで、ある程度検証のし易い環境が整っていますが、38年前のメディア環境がどうであったか、当時を知る方は思い出してみてください。
テレビやラジオ局は限られ、詳しい内容は3大新聞や地方紙、雑誌を通してというのが一般的だったはずです。ネットなどはまだありませんでしたから、多くの人々が同じメディアから同じ情報を取り入れていた時代でした。
ですから、その時は国民的アイドルなど「国民的〇〇」という言葉がすんなりと受け入れられた時代でもあったのです。別の言い方をすれば、一人のアイドルやスポーツ選手に国民の大多数が熱狂できた時代だったのです。それはそうでしょう、皆が同じ情報ソースを見聞きし、それに対して何の疑いもなく論評し合うのが当たり前の世の中だったのですから。
そして、当時の国民は、その罠にまんまと引っ掛かった。スポーツや芸能という一見政治や思想と関係ない表現の中に埋め込まれた心理的トリガーを、疑いなき無垢の心で無条件に吸収し続けていたのです。
本ブログの「芸能界の闇」シリーズは、まさにその点を追ったものであり、その分析から、123便事件が大衆心理操作を含め長期間の計画を経て為されたものである痕跡を幾つか見出すことができました。
これまで、その計画のことを「123便撃墜計画」あるいは「昭和天皇暗殺計画」と表していましたが、この計画の背後を更に追求していくと、これらが、大きな国家的計画の一部でしかないことも段々と分かってきたのです。
現在のところ、その規模と内容は、もはや「計画」というより「儀式・祭祀」と呼ぶに相応しいもので、その「儀式」の本質は、123便の乗員乗客を狙ったと言うより、日本国民全員の命を狙ったと言うべきものであると私は判断しています。
しかし、私たちは38年後の現在でも生きています。生きているが故に、そのような「儀式」があったとは誰も思わないのですが、実は1985年の儀式が不調に終わった理由も、これまでの調査から大分見えてきているのです。
私の実力では、これらを系統だって説明するのはまだまだ難しいのですが、この「大儀式」が終了していない現実は
・1995年地下鉄サリン事件
・2011年東日本大震災、福島第一原発事故
・2020年コロナパンデミック
など、この38年の間に発生した大規模災害・事故・事件から読み解くことができます。
こういうことを書くと、またすぐに「陰謀論」と言われてしまいそうですが、そう言う人はメディアが作り上げた政府や社会のイメージを一切疑わない、素直で善良な人々なのでしょう。
残念ながら、123便事件はその政府と社会が一体となり、緻密な計画に従って進められたものなのです。泥棒が「泥棒をした」と言うはずはなく、泥棒が生き残れるのは、過度に善良な人々がその甘言に酔いしれ盲目的に泥棒を擁護しているからだと、そろそろ気付いて欲しいのです。何よりも、その命が奪われる前に。
話があらぬ方向に進みそうなのでここまでにしておきますが、私が一番にお伝えしたいのは
1985年の計画はまだ生きている
という事実であり、国民の誰もが123便の犠牲者と同じ運命を辿る可能性があるということなのです。
現在公開中の映画「君たちはどう生きるか」の中で、崩れ行く現世に戻ろうとする主人公を引き止めるシーンがあります。この「崩れ行く現世」こそが、現在進行中の「計画」を示す暗示であると、私は捉えたのです。
参考:
・黒霧123便関連記事ガイド
・(新)ブログ全記事リスト
・123便搭乗者検索
QUI CUM SAPIENTIBUS GRADITUR SAPIENS ERIT AMICUS STULTORUM EFFICIETUR SIMILIS
知恵ある者と共に歩けば知恵を得/愚か者と交われば災いに遭う。
(箴言 第13章20節)
キリストの御国にて記す
管理人 日月土